2024年3月31日 朝礼拝『私は主を見ました』大賀幸一牧師

イザヤ書 55章1-11節 ヨハネによる福音書 20章1-18節

  日曜日の朝。マグダラのマリアたちは、イエス様の墓に急ぎました。遺体処置のために墓に出かけた女性たちは、イエス様を納めた墓の扉が開かれていることを見ました。中には誰もいないことを目撃しました。マグダラのマリアは、イエス様がどこに移されたのか分かりません、と言っています。イエス様の復活について、私たちにはそれが分かりません。私たちにはそれが見えません。ただ空っぽの墓があるだけで、私たちに見えるのはただそれだけなのです。ところが急に、復活されたイエス様のことが見えるようになった瞬間があります。マグダラのマリアに、イエス様が呼びかけた時です。そこで初めてマリアは、イエス様であることに気づいて行きます。9節に、イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を二人はまだ理解していなかった、と記されています。聖書には、死者からの復活について記されています。また、イエス様ご自身がくどいぐらいに、ご自分の十字架の死と死者からの復活について弟子たちに教え続けました。そこまでしても、イエス様の弟子たちは、イエス様の復活が理解できませんでした。復活が分からないから、イエス様の十字架も分かりません。それで終わらなかったのは、イエス様が復活されて、弟子たちに呼びかけてくださったからです。弟子たちをもう一度呼び集めて、愛して、教えてくださったからです。イエス様が私たち人間に関わってくださることで私たちは、イエス様の十字架と復活を知ることとなったのです。このように、神様が私たちを呼び止めてくれます。私たちに呼びかけてくれます。私たちの命に、人生に関わってくれます。それがなくてどうして私たち人間が神様のなされる業を知ることが出来るでしょうか。私たちの人生は、神様によって呼びかけられています。私たちの命は、神様によってその扉が開かれています。死から命へと。死から永遠の命へと開かれています。