2023年6月25日 朝礼拝『手引きしてくれる人がなければ』大賀幸一牧師

エゼキエル書34:1-6 使徒言行録8:26-38

  エチオピア人高官は、フィリポから、イザヤ書53章7~8節の自分が読んでいた個所について解説してもらい、その結果、イエス様を信じて洗礼を受けたいと願いました。高官はフィリポに、私が洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか?と尋ねています。この後の個所、37節は欠落しています。実は明らかにのちの時代に書き加えられたであろう文章となっています。フィリポはあなたが真心から信じるなら差し支えありませんと返答し、高官は、イエス・キリストを神の子と信じます、と告白しています。つまりこの告白があるならば、誰が洗礼を受けるに当たっても妨げられることはなかったということです。真心から信じていることを当時の教会はどのように確かめたのでしょうか?それは神様の前に、人間は何も嘘をつけなかったのでしょう。神様はすべてをご存じだからです。エチオピア人高官が、イエス様を信じることになったのは、神様がフィリポを遣わしてくださったからです。それと、高官の側も、聖書に、神様に関心を示したからです。私たちの神様への信仰は、神様から始まったことです。神様がおられ、神様が聖霊を持って私たちを促し、導いてくださった結果です。それでも私たち人間の中にまだ神様を知りたい、神様を信じたい、そんな思いが残されているからではないでしょうか。その思いを、神様は見逃すことはありません。もちろんこのように私たちが神様を知ることができるのは、高官がイザヤ書53章を読んでいたように。そこに記されている、主の僕、イエス・キリストが、ただもくもくと苦難を受け、神様に従い、神様の御業をなさってくださったからです。私たちの人生は、こうして、神様の愛と御言葉と、神様が遣わしてくださるイエス様、聖霊、多くの人々によって導かれ、守られているのです。神様を愛し、神様を信じて、私たちは歩みましょう。