2019年10月20日 朝礼拝 『神の国はすぐ現れる』大賀幸一牧師

士師記7:1-8, 19-23、ルカ19:11-27

1)エルサレムに近づいて
 イエス様は今日も一つのたとえ話をなさいました。ムナのお話です。1ムナは100デナリオンです。簡単に言えば1ムナは100万円ぐらいの価値があると思われます。今日のムナのお話の後、イエス様はエルサレムへの最後の入城をなさっています。それは十字架への最後の道のりです。それを前にして話された最後のたとえ話です。イエス様と周りの人々との間にはその思いにおいて大きな違いがあったことが記されています。イエス様の周りにある人々は、神の国がすぐにでも来ると思い込んでいた、と書かれています。しかし、そうではなかったのです。人々の期待の星イエス様は、みんなの前で殺され、いなくなってしまうからです。人々は絶望の淵に立たされるのです。

2)10人に1ムナ
 イエス様のたとえ話は、ある人が王様になるために遠いところで旅に出なければなりません。その間僕たち10人に1ムナを渡して、後を任せて旅立ちました。ある人は王様になって帰って来ました。王様は僕たちを呼んで、どのように1ムナで儲けたのかを知ろうと致します。一人は10ムナを儲けた、また一人は5ムナ儲けた、と報告します。しかしある一人は預かったものを布に包んでしまっておいた、と報告しました。預かったものを何にも用いることなく、ただしまっていたことをこの僕は叱られています。ついにはこの1ムナさえも取り上げられてしまいます。王様は、小さなことにも忠実であったと1ムナで儲けた僕たちに言っています。王様には小さなことなのです。しかし1ムナは人間たちには決して小さくはありません。結構な金額です。1ムナを10ムナにする、5ムナにするとは結構大変なことでしょう。決してごく小さなことなどではなく、私たちにはとても大変なことなのです。ですから僕の一人は、預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取る恐ろしい方として王様を表現しています。王様に象徴されている神様はそんな恐ろしい方でしょうか。預かった1ムナを布にくるんでしまっておく人間には、そのように恐ろしい方でしょう。しかし、10ムナ、5ムナ儲けた人々にはそうではありません。成功したからというのではありません。彼らはこう言っているのです。預かった1ムナがいつの間にか10ムナ、5ムナになっていました。自分たちが儲けたのではなく、預かった1ムナが働いたのです、と言っているのです。私たちには何もできない、と預かったものを隠すのなら、王様は恐ろしい存在でしょう。しかし、預かった1ムナは大いに働いてくれます。

3)神の国がすぐにでも現れると人々は考えていました。しかし、それは裏切られて行きます。エルサレムに入られたイエス様は大歓声を持って迎えられました。そして数日後、イエス様は逮捕され、殺され、人々の前からいなくなってしまいます。どうしてこんなことになってしまったのか、と人々は絶望しました。しかし、それで終わりではなかったのです。神様の御業は、イエス様の死で終わらず、イエス様の死には大きな意味があったのです。絶望で終わりではなく、さらにその先に道があったのです。まだ私たちに与えられた1ムナは残っています。私たちの主が来られる時まで、預けられたことがあるはずです。