2020年2月16日 朝礼拝 『試練に遭う時』大賀幸一牧師

ヨブ記23:1-10、ヤコブ1:2-5

1)試練を喜ぶ 
 私たちは神様を信じる者は試練を受けることがあります。試練はその人間を成長させる道ともなります。試練をその人間が乗り越えることで、その人間の力が、経験が豊かに、知識も増えて行くからです。ですから試練は、信仰に必要な要素ともいえるでしょう。これは、試練に対して私たちが良き道を選択できた場合のことです。試練を大いに喜べ、とヤコブ書は教えていますが、必ずしも喜べないこともあります。たとえば、ヨブの場合です。ヨブは一挙に家族を失い、財産を奪われるという大変な喪失を経験しました。理由も分からないまま奪われるという災害のような試練です。この試練は、ヨブを次第にかたくなにし、ヨブの心は誰に対しても閉じられて行きました。もちろん神様に対しもヨブの心は閉じられて行きました。

2)信仰が試される 
 信仰が試されると忍耐が生じる、ことを私たちは知っています。“苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を産むことを知っているからです”ローマ5:3~4【聖書協会共同訳】“およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられ人々に、平和な義の実を結ばせるのです”ヘブライ12:11【聖書協会共同訳】このように神様の御言葉は、私たちにとって試練が大事な働きをすることを教えています。何故信仰に試練は必要なのでしょう。試練は私たちに忍耐をもたらします。忍耐、耐える力が増加することで私たちにどんな益があるでしょう。それは、私たちの大切な事柄を守る力が大きくなるということです。耐える力は大切な事柄を守る力となります。

3)あくまでも忍耐しなさい 
 4節には、何が何でも忍耐しないといけない、と書かれています。しかし少々本来の意味は違うようです。ヤコブの手紙は、行いの伴わない信仰などない、と教える手紙です。信仰と行い、業とを別のものと切り離してしまう信仰のあり方を批判しています。4節で、忍耐は完全な行い、業を生ずることになります、と言っています。何が何でも耐え忍びなさい、我慢しなさいと命令しているのではありません。少なくともヤコブはそう信じて歩んできました。忍耐は完全な業を生じることになります。あなたがたはどう思いますか、と言っているのです。

 

4)ヨブが苦しみ、つまづいているのも、何故私にこの試練が、どういう理由でこの試練が与えられているのかが分からないから」です。そして大事なのは神様は何も答えてくださらないからです。神様は私たちのこの苦しみを何も知らないのではないか、という恐怖がヨブにはあるのです。しかし、私たちは知っています。神様はすべてを知っています。ヨブが不安と恐怖の中にある時も、苦しみ呻いている時も、神様はヨブの全てを知っています。ヨブだけが苦しんでいたのではなく、神様も一緒に苦しんでいるのです。ヤコブは、神様は、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えくださる方だと教えてくれています。神様の愛の御手、助けの手なくして、私たちが受ける試練をどうして乗り越えることができるでしょうか。神様の御手に導かれているからこそ、私たちは試練に遭ってもこれを耐え忍び、喜びとすることができるのです。