2020年2月2日 朝礼拝『土台の上にわが家を』大賀幸一牧師

列王記上8:22-30、コリントⅠ3:10-17

1)火と共に現れるかの日 
 イエス・キリストの土台の上に建て上げて行く家があります。それぞれ自分たちの家を建てて行くのです。それは私たちの人生、私たちの命を建て上げて行くのです。そして、かの日が訪れます。13節、火と共にかの日が訪れる、と。火はイエス様の土台の上に私たちがどのような家を建てたのかを吟味するためにあります。かの日、とは終末、神様の審判の日です。しかし逆に言いますと、私たちが建てる家が完成した日でもあるのです。どのような家が建ったのか、神様が見てくださるのです。火、とは何かを象徴していましょう。聖書において、火は神様の御言葉を表す場合があります。神様の眼は大変厳しく、私たちが建てた家をご覧になってくださいます。神様の御言葉という基準で、神様の愛と恵みという秤で、正義と平和という物差しで、私たちの家を計ってくださるのです。神様に喜ばれれば、それは私たちの人生、私たちの命の勝利です。神様に戒められれば、それもまた私たちのゴールです。

2)火の中をくぐり抜けて来た者 
 15節、かの日に現れた火によって私たちの建てたものが燃え尽きてしまいました。そのことで私たちはせっかく人生をかけて建てて来た家が無くなるのですから、当然損害を受けることになります。しかし、私たちはそれで救われます。もしかしたら、神様によって私たちが建てて来た家が燃やされて灰になることが私たちの命にとって良いこともあるのではないでしょうか。この地上の持つ強い束縛の力、それは強烈なものがあります。その力は、私たちを地上に縛り付け、私たちが自由になることを妨げていることもあります。神様のもたらす火は、それらすべての束縛を断ち切り、私たちに解放を、自由を与えてくださいます。どちらにしても、かの日に、私たちは自分たちが建てた家を神様に見てもらわなければなりません。どのようであっても、神様は私たちを救ってくださいます。

3)キリストの土台 
 ただ一つ、パウロさんも注意して言われたように、イエス・キリストという土台を抜きにして私たちは家を建てることはありません。もちろん、イエス様を信じている人も信じていない人もこの世界にはいます。しかし、神様がイエス様をこの世界に遣わせしてくださったことは間違いありません。そして、イエス様は、ご自分の血を流してまで、ご自分の命を削ってまで、私たちの世界を愛してくださっているのです。イエス様の愛と御心に反して、私たちは家を建てることなどありません。神様の愛と御言葉をいっぱい受けて、私たちの家を建てて行きましょう。

4)私たちは神殿 
 私たちが建てる家、命、それは遂には、神様が宿る神殿でもあります。神様が私たちの命に宿ってくださる時がやって来ます。ソロモン王は、私たちが献げたエルサレムの神殿なんぞ、神様が住むような家ではありません。ただ神様がその名前をここにおいて、私たちの祈りを聞いて、私たちを赦してください、とお祈りしています。いつも、神様が私たちの祈りに耳を傾けて、私たちの願いを聞いて、私たちを赦してくださるように。そして、神様はそんな私たちの中にも住んでくださるのです。それだけ、私たちに与えられた命は大変大切な、尊い存在でもあるのです。