2020年1月12日 朝礼拝 『神の小羊』大賀幸一牧師

イザヤ書42:1-9、ヨハネ1:29-34

1.世の罪を取り除く神の小羊 
 イエス様に洗礼を授けたヨハネは、神の小羊、とイエス様を呼んでいます。神の小羊、は一体何を意味しているのか、まだまだ分かっていません。この神の小羊、世の罪を取り除く、とあります。世界中の罪を取り除くのです。罪とは、人間たちが神様から逃げ出してしまい、神様との関係が切れた状態のままであることを表しています。聖書には、罪が贖われる、という言葉があります。これは例えば借金で奴隷のようになっている人間を、大金を出して奴隷から解放してくださることを表しています。ヨハネには、取り除く、と書かれているのです。

2.イザヤ書 
 今日はイザヤ書42章を読んでいただきました。そこには“主の僕”という存在について書かれています。主の僕、とはただ神様を信じて、従順に従う人なのです。傷ついた葦を折ることなく、消えかかった灯を消すことなく、神様の御業をなされるのです。これは大変なことです。一度傷ついた大変な思いの中にある者に希望を与え、歩み出す力を持たせようとし、もう消えかけている灯があり、消えるしかないのに、それでも灯を保たせようとするのですから。ほとんど不可能なことを言っているのです。神の羊は、この主の僕のお話の中に出てきます。イザヤ書53章に、毛を切る者の前に者を言わない羊のように、彼は口をひらかなった、とあります。神の羊、小羊は、ただ黙って、神様が与えた道を進むのです。どんなに苦しくても、辛くても、ひたすら神様を信じて進むのです。6節には、私たちの罪をすべて主は彼に負わせた、担わせた、とあります。先ほどは、贖う、という言葉についてお話ししましたが、ここにあるのは、何の責任もないのに負わせたのです。もちろん神様が。そうして、神の小羊は、世の罪を取り除くのです。自分の命をもって耐え忍び、走り抜き、自分の命を犠牲にして行かれたのです。神様と再びつながり合うことが、どんなに人間にとって必要なことでしょう。それはそれを知った人間にしか分かりません。

3.ヨハネは知らなかった 
 洗礼者ヨハネは、神様によって選ばれた人間の中でも素晴らしい人でした。そのヨハネでさえ、イエス様を知らなかったのです。私たちには、神様のなされるすべてのことが分かるわけではありません。神様は、ヨハネに、神の霊が降る人こそ、神様がお遣わしになる人だとの約束を得ていました。その人がいつやって来るのかは知らなかったのです。そしてヨハネは、その人が来るまでの間なすべきことがありました。水で洗礼を授けることです。ヨハネの後、その使命を継承しているのは、神の教会です。何故なら教会に洗礼を授ける働きが与えられているからです。水による洗礼を授けるとは、人々に、神様が私たちに近づいていらっしゃることを伝えるのです。神様が来られることを、私たちが喜びをもって迎えられるように、人々が準備を整えるようにするのです。神様が遣わされる方が来られる時、私たちが知らなかったすべてのことが分かるようになります。