2019年12月1日 朝礼拝 『見よ、ここにいる』大賀幸一牧師

イザヤ書52:1-10、ヨハネ7:25-31

1)イザヤ書52章のイザヤは、無名の預言者と考えられています。必ずしもアモツの子イザヤという預言者ではないということです。神様が遣わされる預言者には無名の者も多くいるのです。無名のイザヤが神の民に向けて語りますのは、解放と回復の御言葉です。自分たち自身が犯した過ちの故に、自ら囚われの身となった神の民たち。しかし、いよいよ、その苦しみが終わり、回復の時がやってまいります。“ただ同然で売られていたあなたたちが、銀によらず買い戻される時が来た”と言うメッセージです。売り渡される時、神の民たちはただ同然、値段、価値など付かず奴隷として売られたのです。だから買い戻される時も只同然で買い戻される、のです。すべて神様が支払ってくださるからです。私たちが自分で自分の命を買い戻すのではなく、神様が買い戻してくださるのです。もちろんそれは、私たちの主イエス様の献げてくださった命により、神様によって買い戻されたことにつながっています。

2)神様の名前というのは、いつも人々から崇められているのではありません。神様は絶え間なく侮られている、と訴えておられます。人間が神様から離れて生きるようになってからずっと同じことが繰り返されています。神様の名前ほど崇拝、称賛されるべきものでしょう。そうではないのは、人間たちが神様を信じられないからです。しかし、預言者は、それゆえ、私の民は私の名を知るようになる、と預言しています。それは、神の民が神様を信じられないから、神様の名前を知るようにしてくださる、と預言者は伝えています。しかし、預言者は言います。「見よ、ここにいる」と私が神であることを知る、と。

3)アドヴェント、待降節は、クリスマスを迎える準備の期間です。私たちが今一度神様に立ち帰って、神様が遣わされる方を迎える準備をする時が備えられているのです。神様はこうしていつも私たちがちゃんと迎えられるように準備すること、必要な時間を与えてくださいます。そうでないと、私たちがどうやってキリストを迎えることができるでしょうか。キリストを迎えてこそクリスマスです。この時期、私たちだけがではなく、さらに多くの人々がクリスマスを迎えるために、この知らせを伝えるための時でもあります。良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことでしょう。大勢の人々と共に祝うため、この平和の時を一緒に祝うために、ぜひこの知らせを皆さんに届ける時です。
4)その時良い知らせを伝える人々はこう歌えました。「神様は王となられた」と。神様は昔から王様のようなものではないか、と思うところですが、そうではないのです。神様が愛した者はみんな神様から離れてしまいました。神様は再びすべての愛する者を取り戻しておられるのです。すべては神様の愛の中に戻って行きます。すべては神様に属する者となります。すべては神様のものです。このように良い知らせを伝える者たちは人々に伝えました。その時が来たのです、と。すべてが神様と共にある時がやってきているのです。どうやって神様は、すべてをその愛の中に取り戻されたのか。あんなに神様から遠ざかり、神様から離れていた私たちが神様の愛の中に戻されたのか。その不思議な神様の愛の御手を知らされるからです。