2019年8月18日 朝礼拝 『その人に憐れみをかけた人』大賀幸一牧師

出エジプト記22:20-26、ルカ10:25-37

1)自分を正当化 
 律法の専門家、律法学者は、自分を正当化しようとした、自分は間違っていないとした、と書かれています。そして、イエス様に私の隣人とは誰でしょうか?と質問したとあります。ユダヤの律法学者にとって、隣人とは、同胞であるユダヤ人であり、神の律法を正しく守っている人たちの事です。外国人は隣人ではありません。神の律法を守らない人たちも隣人ではないのです。ところがイエス様から、“良きサマリア人のたとえ話”を聞いて、律法学者が出した答えは、憐みをかけた人としてサマリア人が隣人になったことを認めたのです。
2)祭司、レビ人たち  祭司、レビ人たちが強盗に襲われて重体となっていた旅人を見かけて、その旅人を救助することもなく、あえて道の反対側を通って、避けるように遠ざかって行きます。これには理由があります。祭司、レビ人たちは、神の律法に従うならば、死体に触れてはならないのです。祭司は神様にとって聖なる者でなければならない、とされ、神様の律法に従って、自分を聖なる者として保ち続けることを厳しく命じられているのです。そうでなければ、神様の祭司としての役割が果たせないからです。律法学者ももちろんその点は重々承知しているはずです。しかし、彼は重症者の隣人になったのは誰か、と問われた時に、サマリア人が隣人になった、と答えているのです。既にお気づきのように、律法学者は、私の隣人は誰でしょうか?という疑問をイエス様に投げかけました。イエス様は、誰と誰があなたの隣人です、という答えを用意していません。誰が重傷になった人の隣人になったか、とお尋ねになりました。隣人とは、範囲でもありませんし、線引きをすべきものでもないのです。私たち自身が隣人になるか、ならないかを自分たちが決めるのです。祭司、レビ人たちは、神様の律法に従いましたが、重症の人の隣人にはならなかったのです。私たちが隣人になる時に、気をつけたいことがあります。自分を正当化するということ、そして、サマリア人は重症を負った人に憐みを感じたという事です。自分を正しいとする時、私の隣人が分からなくなるのです。サマリア人は、憐みを感じました。怪我をした人の痛みを感じたのです。イエス様に従う者として、忘れては、失ってはならないことではないでしょうか。

3)永遠の命を受け継ぐ 
 この一連の物語が私たちに教えているのは、永遠の命を受け継ぐには、という事です。その道は、既に神様から神の民たちに与えられていました。律法学者も知っていました。それは、神様を愛することです。そして自分のように隣人を愛することです。イエス様もその通りだと、承認されていますから、間違いなく永遠の命を受け継ぐには、この道なのです。方法は分かっていても、それを実現できるか、実行できるかなのです。何故か、私たちには、神様を愛しましょうと言うことが分かっていても、神様を愛せない力が働いているのです。それに立ち向かい、戦って神様を愛することが必要なのです。この戦いを進めて行くのに、一人では戦えません。共に神様を愛するという戦いを戦い抜く仲間がなければどうしてこの戦いを勝利して行くことができますでしょうか。私たちの教会は、教派や教会を越えて信仰を同じくして神様を愛して来た同胞教会ではありませんか。私たちは主イエスキリストにあって同胞、兄弟姉妹です。神様を愛し、隣人を愛するという偉大な戦いを、神様の御言葉によって、神様の愛に支えられて進めて行きましょう。