2019年8月11日 朝礼拝 『イエスを歓迎しなかった』大賀幸一牧師

列王記 上19:8-21、ルカ9:51-62

1)イエスを歓迎しなかった 
 イエス様は天に上げられる時期が近づいたので、エルサレムに向かおうとしたのです。その大事な始まりの出来事として、サマリア人の村をイエス様は訪ねています。ガリラヤでもない、ユダヤでもない、サマリアなのです。サマリアは、かつてのイスラエル王国が滅亡後、様々な民族が入植させられた人々です。入植させられた人々は、以前から崇拝していた神々もイスラエルの神と一緒に崇拝していたそうです。それはイスラエルの神様が望まない偶像崇拝でした。この様ないきさつがありますから、ユダヤ人たちは、サマリア人を同じくイスラエルの神を信じる者として受け入れません。
  さて、イエス様は、エルサレムに向かおうとしています。十字架と復活の道をイエス様は進もうとされているのです。その大事なスタートとして、イエス様はサマリアの村を訪ねました。先触れの使者を立てて、これからナザレのイエスがいらっしゃると事前に知らせたそうです。ところがサマリアの村の人々は、イエス様がエルサレムへ行こうとしていることに反発し、イエス様を歓迎しなかったとされています。その理由はエルサレムにあります。たとえば、イエス様は、サマリアの人々と共にエルサレムに行くことを求められたとしたらどうでしょうか。エルサレムは、ユダヤ人の神殿です。サマリア人を迎えないからです。イエス様は、ご自身が中心となって、ご自身が導いて、人々が真に神様を迎えるものになるようにと神様の御業を行って来ました。そのためにまずユダヤ人がイエス様を迎えること、そしてガリラヤ人、さらにはサマリア人たちも、そしてあらゆる人々が神様を迎えるものとなることを目指しておられたのです。しかし、サマリア人たちは、イエス様と共にエルサレムに行くことを拒絶しました。この出来事が、突然の出来事でないことは、弟子のヤコブとヨハネの激しい怒りから分かりません。イエス様を迎え入れようとしない、共に歩もうとしないサマリア人たちの頑なさに、激しい怒りがあります。天からの火をもってこの村を焼き尽くしてやりましょう、しかし、それはイエス様の願うことでは決してありません。イエス様は滅ぼすためではなく、救うために、命のために、和解のためにいらっしゃったのです。イエス様は、サマリア人たちを深い慈しみの思いで愛し、赦してくださっています。ですからサマリア人たちは、イエス様と共にエルサレムに進むべきでした。

2)イエス様を迎える 
 私たちは、イエス様から招かれて、神様を信じるものとなりました。招かれた私たちは、イエス様を迎えたのです。歓迎したのです。ところが、その私たちが、心の隅々に至るまでイエス様を迎えたかというとそうではありません。57節以下にありますように、イエス様に従いますと言いながらも、イエス様を迎える場所はどこにもありません。イエス様に従いますと言いながらも先ず父の葬儀に行くことを求め、家族ととの別れを求めています。葬儀を否定しているのではありません。全てを委ねてイエス様に従って行くのではなく、後ろを振り返ることは良い結果をもたらしません。この人々はイエス様に従って行こうとしている人々です。しかしまだどこかにイエス様を迎え入れない何者かが残っているのです。イエス様は、私たちに教会を与えられました。幕屋や神殿と同じく、神様を迎えるために、教会が私たちに与えられたのです。私たちが神様をイエス様を迎えるためです。真実の和解へと進むためです。イエス様を迎えてください。歓迎してください。