2019年7月21日 朝礼拝 『もう泣かなくともよい』大賀幸一牧師

エレミヤ書38:1-13、ルカ7:11-17

1)ナインの町で 
 ナインという町は、イエス様の故郷ナザレの南東9kmにあるガリラヤ地方の村です。そこである葬列に出くわしました。一人息子を失って悲嘆にくれている母親の姿をイエス様は見つめていました。そして、イエス様は母親を深く憐れまれました。憐れむというより、母親の嘆きを思って、イエス様の中には強い痛み、怒りの様な悲しみが湧き起こっています。イエス様は、母親にもうなかなくてもよい、と語りかけられています。私たちは、この出来事から、イエス様が、神様が私たち人間を、人間世界に対して深く憐みを持って見つめていることを知るのです。それは今日だけのことではなく、いつも、どんな時も神様は、人間に対して深い憐みを抱いているのです。

2)母と子を隔てるもの
 寡婦である女性の一人息子の死は、母親にとって家族を奪うだけでなく、あらゆるものを奪う出来事、絶望に近い出来事であったのではないでしょうか。イエス様は葬列を止めて、棺に手を触れたとあります。棺といっても当時のものは陶器の水甕を使ったもの、個人の墓など持つのは大変ですから村の共同墓地に遺体を収めるというものだったと思われます。イエス様は葬列を止め、「若者よ、起きよ」と呼びかけられました。イエス様はこどもを母に返された、と記されています。母と子を隔てているもの、それは死です。命は、母からこどもへと受け継がれて行きました。確かな命のつながりが母と子の間にあります。しかし、今こどもの死が、母と子の間にあった確かなつながりを妨げ、隔ててしまいました。また人間にとって死というものが恐るべきものとなったのは、人間が神様から逃げ出し、背くものとなって以来と聖書は教えています。つまり罪が、母と子を隔てているのです。罪とは的外れなこと、神様と私たちとの間がずれているのです。すれ違ったまま、出会うこともなく、つながることなく、遠ざかってしまっているのです。母も子も、神様と私たちも、そこにいるのに合うことも話すことも出来ない、もどかしい思いをしているのです。そこで私たちのイエス様は、母と子を、神様と私たちを、すれ違いのままだった関係を元に戻してくださったのです。死者が起き上がるとは、不可思議なことです。しかし、イエス様が仲立ちとなり、すれ違いのままだった母と子をつなぎ合わせてくださったというなら、理解できるのです。
3)神様の御言葉が私たちに希望を与えている  以前、オリンピック選手でもあった池江璃花子さんが白血病となり、聖書の御言葉によって希望を持っていることを紹介したことがあります。またプロボクサーの村田諒大さんが8歳になる息子さんに書いた手紙が話題となっています。聖書のタラントの話しを息子さんにしているのです。今日の試合でお父さんはだいぶタラントを使ってしまった。息子さんにも大切なタラントがあるはず、どんなタラントがあるのか一緒に探しましょう、というものです。神様の御言葉は、私たちに希望を与えるもととなっています。父と子とを結びつけるものとなっています。そして失われた一人息子と母親とをイエス様はもう一度結び合せています。一人の人間の怒りと憎しみが、大勢の人間の命を無理やりに奪い去ります。しかし神様は、人間を怒ることも憎むこともありません。神様は、人間をいつも憐れんでいます。神様の愛は、多くの罪を覆う、のです。私たちの弱さも罪も死もすべてを神様の愛は覆い、包んでくださいます。怒りと憎しみを捨て去り、神様の愛に従いましょう。