2019年7月7日 朝礼拝 『この人は罪人を迎える』大賀幸一牧師

エゼキエル書34:1-6、ルカ15:1-10
1)3つの大切なものを失った物語 
 イエス様は3つの物語を語りだします。先ず一つ目は、ある男性が100匹の羊を所有していましたが、1匹見失ってしまいました。第2の物語は、ある女性が10枚の大切な銀貨を持っていましたが、1枚無くしてしまいます。第3の物語は、有名な放蕩息子の物語です。最初の物語100匹の羊の内1匹の羊を見失ってしまいます。“見失う”とありますが、本当は“失った”と書かれています。マタイ福音書では、迷った、とされています。第2の物語、10枚の銀貨の内1枚を無くしてしまうのですが、この無くしても実は、”失う“のです。第3の物語、放蕩の限りを尽くして全てを失って帰って来た息子を抱き締めて父親は言っています。この息子は死んでいたのに生き返った、と。ただ迷っていただけではないのです。”失われていた“、”死んでいた“のです。羊の群れの中から失われた羊は、遂には死を迎えるでしょう。家の中にあるとはいえ、無くしてしまった銀貨は見つけ出されることなければ価値を失っています。そして、父の家を離れて好き勝手に生きて来た息子もまた父親から見るなら死んだ状態です。戻らなければ死んだ状態は解消されません。放蕩息子は自ら父の家に帰ろうとしました。無一文で食べるものもなく、激しい飢餓が一帯を襲い、ここにいても残されているのは死だけがあるからです。ならば父の家に帰ろう、としました。人間の場合はそうです、では羊や銀貨はどうでしょうか。自分で元の所に帰ることができるでしょうか。失われた羊や銀貨を探し続けてくださる方がなければ、元に戻ることは出来ないのです。もちろん探し続けてくださる方を、私たちは神様と呼んでいるのです。

2)見つけ出すまで捜す 
 所有者は、失った羊を見つけ出すまで捜します。銀貨を発見するまで捜します。父親は息子が帰って来るまで待ち続けます。必ず見つけ出すまで探し出してくれます。だから誰も失われません。見つけ出された時、見られた時、すべてが成し遂げられます。見つけられた時、叱られたでしょうか。自己責任を問われたでしょうか。いえ、何も問われません。ただ大きな喜びがあっただけです。放蕩息子を迎えた父親をご覧ください。与えられた全てを失った息子を父親は責めたでしょうか?父親が息子を認めて、走り寄り、迎えてくださったのです。これが神様なのです。神様に見つけ出された時、放蕩の限りを尽くした人間の過ちは許されました。ただそのまま受け止めてくれました。歓迎してくれました。見つけ出される、とはそういう事です。

3)一緒に喜んでください 
 失われた者たちが見つけ出されて帰って来ました。一緒に喜んでください、と。しかし、ファリサイ派、律法学者たちは、何故彼は罪人を迎えて一緒に食事をしているのか、と非難し始めるのです。しかし、1匹の羊を見つけ出した男性も1枚の銀貨を見つけ出した女性も、息子を見つけた父親もみんな大いに喜んでいるのです。私たちの社会は、私たちを迎えて喜んでくれないのでしょうか。何度も神様から離れようとした私たちを。迎えて喜んでくれないのは神様ではありません。神様は見つけ出すまで捜しだし、私たちを喜んでくださっています。もう神様から離れることはありません。