2019年6月30日 朝礼拝 『私に触れたのは誰か』大賀幸一牧師

申命記8:11-20、ルカ8:40-56

1)死にかけている少女 
 会堂長ヤイロの愛娘が死にかけています。会堂長ヤイロは、イエス様に懇願しました。イエス様は事情を理解し、会堂長ヤイロと共に行くこととなります。危篤の状態でもまだ息があるなら、イエス様が助けてくださるかもしれない、そう願ってでしょう。しかし、会堂長ヤイロの娘は死んでしまうのです。マルコ、マタイ福音書にも同じ物語が記録されています。マルコ、ルカ福音書はほとんど同じです。しかしマタイ福音書の物語は異なっています。マタイ福音書9章には、会堂長ヤイロではなく、ある指導者とあり、その娘は既に死んでしまっているのです。しかし彼はイエス様に「手をおいてやってください、そうするならば娘は生き返るでしょう」と言っています。まだ息があるから、イエス様にいらしていただこうというお話と、既に死んでしまっているけれどもイエス様にいらしていただこうという二つの物語。危篤状態の娘にはまだ希望がかすかでも残さされているように想像します。しかし、既に死亡してしまった娘には、そのかすかな希望さえも残されていないように思えます。だから、ルカやマルコでは、後から娘の死亡を伝える者が現れて、これ以上イエス様を煩わす必要はないでしょう、と言っています。つまり、もうイエス様が来る必要はない、イエス様はもう不要だ、と言っているのです。また、イエス様たちが会堂長ヤイロの家に向かっている最中に、12年間長血、女性特有の病気に苦しみ、当時の医療では癒されなかった一人の女性のお話があります。彼女は危篤でも死んでもいませんが、どんなことをしても病気が癒されないということは、一種死を宣告されているようなものです。特にユダヤ人社会では、彼女がかかっている病気のために汚れた状態とされ、人前に出来ることは許されなかったからです。触った人をも汚れさせてしまうからです。生きてはいても、人間社会から隔絶された状態の女性なのです。ある意味、この女性も会堂長ヤイロの娘と同じ状態であると言えないでしょうか。希望の無い状態です。それでも私たち人間はどこかに希望を求めて生きています。希望を求められない、希望をもってはならないとされても、人間は希望の無い中でも希望を探し求めて生きているのです。だから、長い病気に苦しめられてもこの女性は、希望を求めて、イエス様に触れようとしたのです。それは禁じられていても。そこに希望を求めたのです。

2)恐れることはない、ただ信じなさい 
 亡くなってしまったら、もうイエス様は不要でしょうか。それは間違いです。まだ息があっても、そして亡くなっていても、私たちにはイエス様が必要です。イエス様は、私たちの神様、救い主、キリストです。人間の死にはどこにも希望が無いように思えます。だからこそイエス様はご自分の命をもって死に挑戦されました。死を越えることが出来る希望は、イエス様、神様にあります。大事なのは、私たちはどこに希望を求めるべきか、です。人間は希望を求めるべきでないところに希望を求めがちです。今日の申命記に、「人間を苦しめて試し、遂には人間を幸福にするためであった」と神様が人間たちに与えられた道の意味するところを示されています。「ただあなたがたは、心を驕り、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。あなたたちが神様を忘れるなら、あなたたちは滅びるでしょう」とあります。わたしたちが希望を求めるべきところは、神様です。