2019年6月2日 朝礼拝 『弟子たちは山に登った』大賀幸一牧師



エゼキエル43:1-7a、マタイ28:16-20
1)心を重ね、祈りを献げる 
 先月28日カリタス小学校のこどもたち、保護者が凶暴な力に殺害された事件に対して、多くの人々が心を痛めています。同じ28日から夏の入門講座が始まり、受講されている方とお話する中、かつて私たちには恐れを抱く、ということがありましたが、それが無くなってしまったとおっしゃっていました。先週の早天祈祷会、詩編8編を皆さんと読みました。夜の礼拝が行われ、夜空を見上げながら人々は礼拝を行ったようです。そして人々は感じ取りました。私たちは何か知れないが大きな存在に包まれていると。そこで人々は歌いました。「人間とは何者なのでしょうか。」自分たちの小ささを思い知らされ、その小さな私たちを大きな愛と力に包まれているのです。

2)山に登る 
 マタイ福音書によりイエス様の復活の栄光を学びましょう。イエス様は、女性の弟子たちに、ガリラヤに行くようにとメッセージを与えました。弟子たちは皆紆余曲折ありながらもガリラヤへ出かけ、ある山で復活されたイエス様と再会しました。マタイ福音書で山に登る事は特別なことです。イエス様は山に登り、そこで山上の説教をされました。十字架にかかる前、イエス様の神の子としての眩いばかりの輝きを現しました。かつてイスラエルの人々はシナイ山と呼ばれる山に登り、神様と契約しました。山に登るとは、神様との特別な出会い、神様との契約の時なのです。弟子たちは、復活されたイエス様と出会い、新しい神様との契約を結び、生きる者とされました。山に登った弟子たちは、復活されたイエス様に出合いました。弟子たちはイエス様の前にひれ伏したとあります。復活されたイエス様は恐るべき存在です。そんなさ中でも弟子たちの中には、疑う者があったことを記録しています。これは当然です。マタイ福音書では、弟子たちはイエス様の命じられるままにガリラヤに向かったように描かれていますが、実際は色々あったのです。弟子たち、特に男性の弟子たちは、女性たちが伝えたメッセージを信じなかった。エルサレムのある家に閉じこもっていた。イエス様は疑う一人一人を招いて、イエス様を信じる者としてくださったのです。今日のマタイ福音書にも、山に登った弟子たちの中にはまだまだ疑いや迷いがあります。そんな時に、イエス様から弟子たちに近づいて行かれたのです。神様という存在は、私たちにとって恐るべき方です。しかし神様は、人間たちのこの恐れを信仰へと導いてくださいます。

3)父と子と聖霊の名へ向かって洗礼を
 イエス様は弟子たちに新たなる命令を与えられました。全ての人を弟子とせよ、洗礼へと導きなさい、とあります。この洗礼、父と子と聖霊の名によって、とあります。別な読み方では、父と子と聖霊に向かって洗礼を、とも読むことができます。私たちが洗礼を受けるのはまさしく神様とイエス様と聖霊に向かっているのです。私たちが神様とイエス様と聖霊と堅く結ばれるためです。途切れている神様と人間の間を回復するためです。決して人間は一人ぼっちではありません。神様の愛の中に生きているのです。神様もイエス様も、私はあなたたちと永遠に共にいる、と約束されています。私たちはこのことを伝えて行きましょう。