2019年3月24日 朝礼拝 『神の国を見るまで死なない』大賀幸一牧師

イザヤ63:7-14、ルカ9:18-27

1)受難予告 
 イエス様は、弟子たちに初めて受難予告をなさいました。その目的はなんでしょうか。イエス様にこれから起こる出来事は、イエス様も神様も知っておられる事柄です。イエス様は突然十字架にかけられたのではありません。イエス様は全てを理解した上で、十字架への道を歩いておられるのです。イエス様の弟子達には、イエス様が全てを知って十字架への道を進んでいることを知って欲しかったのです。そこに神様の計画があることを知って欲しいのです。ところが弟子たちは受難予告をほとんど理解していませんでした。イエス様はこの大事な受難予告を、イエス様をメシア、キリストと確信するに至った弟子たちにこそ明かされたのです。イエス様の受難予告は、イエス様をメシア、キリストと信じることと切り離せないからです。イエス様が受難予告をなさったのは、これからイエス様の身に起こることを明らかにするためでした。イエス様が辿った道は、私達も辿るべき道なのです。人間は誰しも死を経験しなければなりません。私たちの肉体は永遠のものではないからです。そして、イエス様は復活されました。同じ様に私達も復活するのです。私たちの肉体は、永遠ではないが、私たちは神様によって復活させられ、永遠に生きるものとなります。イエス様が受難予告を話されたのは、私たちの未来のためです。それは遥か先のことではなく、必ず起こることです。私たちが恐れることなく、イエス様が示してくださった道を通り、神様の約束を信じて歩めるようにしてくださったのです。

2)私について来たい者は 
 そこで、イエス様は、私たちにこう教えておられます。私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい、と。イエス様について行く人々の事をこの様に示されました。自分を捨てること、自分自身が無私となることです。どの信仰者たちにも共通して求められることです。しかし私たちイエス様を信じる者たちにとっての自分を捨てることはちょっと違います。私たち自身が神様を信頼して、神様に全てを委ねることです。ただ自分を捨てるのではなくて、神様をどこまでも信頼することです。そしてそれぞれが自分の十字架を背負うこととあります。わたしたち自身は既に神様に、イエス様によって背負われている事は皆さんご存知のはずです。その事は、今日のイザヤ書にも証言されています。神様は、モーセの時代にも、神の民を背負ってくださったことが示されています。神様は神の民を鷲の翼に乗せて、神の民を導き、養い、憩わせてくださったのです。同じように神様は神様を信じ、従う者たちを、いつも背負ってくださいます。では私たちが背負う十字架は何のためでしょう。私たちが背負うべき十字架があるのです。愛する者のために、共に生きる人々のために、それぞれが背負っている十字架があるのです。こうしてイエス様は私たちに未来を示してくださいました。これから人間世界が迎えるべき未来です。人間も人間世界も死ななければなりません。しかしそれは、当然のこと、自然なことです。そして人間も人間世界も復活するのです。新しい命、新しい未来が与えられます。イエス様は、私たちに示してくださった未来に関して、人間が命を得ることを望みます。私たちが命へと進むために、イエス様は言葉を与えてくださっています。イエス様の言葉が、わたしたちを命へと導いてくれます。そして、私たちは見るでしょう。私たちは生きて、未来を見るのです。人間は、死んで、神様によって復活させられ、生きて、神の国を見るのです。