2019年3月17日 特別伝道礼拝 『人間をとる漁師』 尾島信之牧師

出エジプト3:1-14、ルカ5:1-11

 1955年12月1日、アメリカ・アラバマ州モンゴメリーで、ローザ・パークス夫人は、不当に逮捕されました。抗議のためバスのボイコット運動が開始され、1956年12月21日、モンゴメリー市のバスは黒人・白人の区別なく同じスペースに乗ることが許される「統合」がなされました。中心的な働きをしたのがマーティン・ルーサー・キングJr。牧師、黒人解放運動のリーダー。本日は、このキング牧師、そして、イエスの弟子となったシモンとイスラエルの民をエジプトから導き出したモーセ、これら先人のクリスチャンたちに思いを馳せてみたいとと思います。

 イエス様はシモンに沖に漕ぎ出し、漁をせよ、と言われました。昼日中に漁をしても大した獲物は期待できません。「しかし、お言葉ですから網を降ろして見ましょう。」と、最大限の譲歩をしました。「人間をとる漁師になる」という言葉は、「これから私の弟子として、一緒に神様のことを宣べ伝えましょう」という“粋な誘い文句”でありますが、この言葉はそれだけの意味に止まりません。この言葉は、「神様が良いとされることを、隣人のために行う人になりなさい」というイエスさまの想いが込められています。みなさんはここの箇所を先ほどお聞きになって、シモンは素直に、すぐさまイエス様に付いて行った印象を受けられたのではないでしょうか?しかし私は10節と11節の行間で、シモンは随分悩んだのではないかと想像しています。またモーセも、「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と言い、ごねているように見受けられます。キング牧師も黒人解放運動に関わったがために、警察に何度となく不当に逮捕され、最期は、暴漢の放ったライフル銃の弾に当たり、39歳という若さで帰らぬ人となってしまいました。後に彼の妻が書き記した本には、もともとは黒人解放運動をするつもりではなかったことや、ごく普通の牧師なりたいと願っていたことを告白しています。

 私はこのいくらかの迷いを持ちながらも、ということに共感します。なぜなら、私自身、牧師になるために大学はキリスト教を学ぶ神学部へと進んだのですが、「自分のような者では、牧師という大変な仕事は出来ないのではないだろうか」と何度も迷ったからであります。偶然信頼する先輩からアドバイスを受けました。「神様が良いとされることを、隣人のためにするってことは、必ずしも牧師にならなきゃ出来ないってことでもない。世の中にあるあらゆる仕事の中で、そのことを表していけるんだよ。」私は卒業後、病院で医療事務の仕事をする道を選びましたが、その後様々な経緯があって、もう一度大学でキリスト教を学ぶ機会が与えられ、こうして説教者としてここに立たせていただいています。シモン・ペトロもモーセもキング牧師もそして僭越ながら私も、いくらかの迷いを持ちながらも、神様から召された特別の使命を与えられていると受け取りました。これを召命と言います。この召命という概念は、16世紀宗教改革者マルティン・ルターは、召命というのは、聖職者や修道者に限定せず、一人一人が神様からの使命を受けていること、世俗のただ中で従事する職業もまた、神様から受けた使命、「神様が良いとされることを、隣人のためにする」働きをするものであるということを強調しています。私たちは、神様からの言葉に目を向け、耳を傾け、それぞれにそれぞれの形で託されている使命を果してゆく一人一人として、今週の歩みに遣わされてまいりましょう。