2019年3月3日 朝礼拝『裂いて弟子たちに渡す』大賀幸一牧師

イザヤ書41:8-16、ルカ福音書9:10-17

1)解散させてください 
 今日、ヨーロッパだけでなく、信仰離れ、教会離れが進んでいると聞きます。日本でもいっそう宗教や信仰に対する関心は薄れている時代です。もちろん私たちはどのような時代になっても宗教、信仰はなくならないと考えています。それは葬式のためではありません。人間には元から心と肉体があって人間です。肉体を養う食事が毎日不可欠であるのは当然です。人間の肉体に関わるあらゆることが人間には必要なのです。同じように、人間の心に関することも必要なのです。心に関することはどうでもいいと言う人は無いはずです。心と共に私たちは人間に霊、魂があることを知っています。ではこの霊、魂に関する知識、これを養う方法がどうしても必要なのです。心も霊も知識を、養われることを求めているのです。ところが、どれだけ人間は自分自身の心と霊の呻きを、求めを知っているでしょうか。また私たちも人間の心と霊の渇望を養えていません。ところが、イエス様は5000人であろうと何人であろうと養ってしまわれるのです。どうやって養うのか、それが今日の出来事に記されています。

2)2匹の魚と5つのパン 
 イエス様は、本来、弟子たちにあなたたちが彼らを養いなさいとおっしゃっていますから、それがイエス様の求めるところなのです。しかし、弟子たちはそれを理解しません。そこでイエス様が取り上げたのは、今イエス様と弟子たちが持っていた2匹の魚と5つのパンです。ただ普通の食事です。ただイエス様がそれを取り上げた時から全ては始まりました。取り上げられた普段の食事は、神様に祝福されたものとなりました。イエス様は神様を讃えて賛美し、感謝の祈りをなさいました。そして、イエス様はそれを裂かれたのです。何故イエス様が自分で裂かなければならなかったのか、それは、イエス様が祝福した食事をそこにいる誰もが共に受けるためです。ごく僅かなかけらでもイエス様はそれをみんなと一緒に受けようとしています。そのために裂かれなければならないのです。もちろんイエス様が裂いたのは魚とパンですが、イエス様の命を裂いて、私たちに与えてくださったことでもあります。さらに、イエス様は裂いた魚とパンを弟子たちに渡しました。弟子たちの手を通してこれらは配られて行くのです。そこにいた全ての人々が食べました。弟子たちも食べました。そして誰もが満たされました。私たちは知っています。空腹の時に食べた食べ物の味を、美味しさを、満たされた時の満足感を。満足して余すほどです。この満足感、達成感、これが私たちの命に必要なのです。人間の心と霊においても満足感は大切です。空腹な心と霊の中に、神様が与えてくださる霊の糧が与えてくださる満足感、それは、私たちの人生を支える力であり、私たちの命の源となったのです。弟子たちがやったことは、イエス様から渡された魚とパンを配っただけです。イエス様が与えてくださる魚とパンがなければ、人々を満足させることは出来ません。しかし、それをイエス様は私たちに渡して委ねられたのです。今日のイザヤ書に、「私はあなたを選び決して見捨てない。私はあなたと共にいる神である」。この御言葉が与える真の喜びを皆さんは既に知っているのです。イエス様は、あなたがたが養いなさいと求めておられます。そのためにイエス様は、私たち人間が養われるための糧を、毎日、私たちのために用意してくださいます。