2019年2月17日 朝礼拝『神の国の秘儀を知る』大賀幸一牧師

箴言3:1-8、ルカ福音書8:4-15

1)神様は乗り越えられない試練を与えない。
 自分には越えられない壁はない  水泳選手、池江瑠花子さんが白血病であることを公表し、大変な騒ぎとなっていますが、池江さんがツィッターで出されているメッセージに、先ほどの様な言葉がありました。これは聖書のみ言葉です。1コリント10:13 「あなた方を耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」とあります。池江さんがどこでこの御言葉を聞いたのかは不明ですが、神様の御言葉が、試練にあっている若者たちを慰め、立ち向かう力になっていることを喜びたいです。

2)種は神様の御言葉である 
 種を蒔く人が種蒔きに出て行った。種は神様の御言葉である、とあります。そして種は色々な所に落ちて行きます。道端、石地、茨の中、そして良い土地に落ちて行きます。種を蒔く人が良い土地に種を蒔こうとしていることは当然のことです。しかし種を蒔いている間に、ある種は色々な所に落ち、蒔かれていったのです。道端に落ちた種は、踏みつけられ、鳥に食べられてしまった。これは、神様の御言葉を人々は聞くのですが、悪魔が来て御言葉を奪って行くのだとイエス様は説明されています。み言葉は奪われ、失われる。すると御言葉である種は、発芽も開花も実を実らすこともありません。御言葉を奪おうとしている力があることを知り、わたしたちは戦う必要があるのです。悪魔と呼ばれる存在は、聖書では、無意味、虚無と呼ばれる存在です。神様が命に意味を与え、価値を与えたのですが、悪魔は、その命の意味、価値を失わせる者です。私たちの人生に襲い掛かる虚無、無意味さと立ち向かうことは、神様の御言葉を保つためにも大事なことです。次にみ言葉は、石地に落ちました。石地とありますが、ルカ福音書では、岩としています。岩に蒔かれた種は、水気がないので枯れてしまいます。マルコマタイ福音書では、水がないのではなく、種から出た根が育たず、遂には枯れてしまうのです。御言葉に大切なのは、根を生やすことです。イエス様は、試練に遭うと身を引いてしまう人間として説明されています。神様を信じているのに試練に遭う、それでは神様を信じる意味がない、と人は言うでしょう。試練に遭うことが、人間を成長させることは確かです。私たちの中で成長している神様の御言葉が、どれほどの力となっているのかを示すことになります。そのために根がしっかりと張っていることが必要なのです。他の種は茨の中に落ちます。茨は、思い煩い、富、快楽に覆われ塞がれてしまう事だとイエス様はおっしゃいました。それ以上み言葉は、その人の中で成長できずにいるのです。人生に覆いかぶさる様々な不安が、人間に神様を信じることを、神様に聞くことを取り上げてしまうのです。また富や快楽への欲望がいつしか人間の心を支配して、神様の御言葉が留まる場所を奪ってしまうのです。実に神様の御言葉である種が、私たちの命の中で、私たちの人生で、発芽し、成長し、花を咲かせ、実を実らせるに至るまで、以下に多くの課題があることをイエス様は訴えています。これらの課題を越えてこそ、神様の御言葉である種は、私たちに多くの実りをもたらしてくれます。それは喜びであり、恵みであり、朽ちることのない命、しぼむことのない命です。イエス様は私たちに神の国の秘儀を教えています。イエス様がいるからその秘密を知ることができたのです。神様の御言葉を聞きましょう。