2018年11月18日 朝礼拝 『私があなたを遣わす徴』大賀幸一牧師

出エ3:1-15、ルカ福音書20:27-40

1)道をそれて 
 モーセは、エジプトを追放され、ミディアン人エトロのもとで羊飼いとして生活しています。羊を飼いながら、神の山ホレブへとやって来ました。そして道をそれて行きます。燃える柴を見つけたからです。燃える柴などどこでも見える光景です。乾燥した砂漠地帯の山、乾燥した木々が擦れ合って自然発火することは良くあること。不思議なのは、柴が燃え尽きないのです。何故ならその火は自然の炎ではなく、神様の炎で、神様が炎の向こうからモーセをご覧になっていたのです。道をそれてやって来るモーセを神様は見つめていました。神様はモーセを呼び止めます。靴を脱げと、何故かと言うとここは聖なる場所だからと神様はおっしゃいました。道をそれて辿り着いた所が聖なる場所だったのです。普通聖なる場所への道は、道をそれて行く所にあるはずがありません。真っ直ぐな道を進んで行くとそこに聖なる場所がと想像するのですが、神様がモーセと会った聖なる場所は、道をそれて行く先なのです。

2)叫びと痛みを知る神 
 モーセはこうして神様に捕らえられ、神様の使者としてエジプトに遣わされて行くことになりますが、その時に神様は、エジプトにいる神の民たちのことを知ったと表明しています。エジプトで奴隷のような扱いを受け、追い使う者に酷使されている神の民たちの叫びと痛みを神様は知ったとおっしゃっています。神様という存在は、非人間的な存在、超越的な存在と言われがちです。しかし、私たちが知った神様は、人間の叫びと痛みを知っておられる神様です。そして神様はどうするかというと、自ら降って行き、人間たちを助けたいとモーセに言われています。どうやって降って行くか、そのために神様に遣わされる人が必要なのです。何故なら神様は人間には見えないからです。触れられないからです。代わりに神様が遣わす人間によって、神様はその御心を表わして来たのです。しかしどの神様に遣わされた人間たちも完全には神様の御心に従う事はありません。イエス様以外は。

3)生きている者の神 
 イエス様は、サドカイ派ユダヤ人の質問に答えて、死者の復活が確かなことであると教えています。それは、今日の出エジプト記、モーセの物語において、神様ご自身が、私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるとして証明されているからとあります。アブラハムの命はイサクに、イサクの命はヤコブに受け継がれています。ヤコブの命は、イスラエルの人々に、ユダヤの人々に受け継がれています。死んだ者とされている者たちは今もその命を受け継がれて生きているのです。死者は復活するのです。その命は決して無くなるものではないからです。死者は、今生きている者たちの命の中に埋もれてしまうのでもありません。神様は今もアブラハム、イサク、ヤコブの神、私たちの神様です。イエス様はこう教えておられます。神様は死んだ者の神ではなく、生きている者の神様なのだと。そして全ての人は神様によって生きている、と。神様と共にない命などあり得ないのです。全ての命は神様と共にあるのです。私たちの人間の世界こそ神様から離れた命のない世界です。人は再び神様によって生きるものとなるため、神様と共にあろうとします。命は神様と共にあるからです。わたしは必ずあなたと共にいる。神様はこうおっしゃっておられます。その道は、必ずしも真っ直ぐではありません。右に曲がり、左に曲がり、時に後ろに下がり、随分と後ろから始めなければならない道です。それでも神様は、私たちと共におられます。