2018年9月16日 朝礼拝 『待望する者たちのために』大賀幸一牧師

出エ12:21-27、ヘブライ人9:23‐28

1)大祭司キリスト 
 ヘブライ人への手紙を読みましょう。ユダヤ教の時代には、大祭司という存在がありました。エルサレムに神殿が存在していた時、大祭司は1年間に1度だけ、大贖罪日と呼ばれる日に、神殿の奥に置かれている至聖所に入ることが許されています。至聖所には、神の箱が置かれています。モーセの時代に神様が与えてくださった十戒を記した2枚の石板の納められた箱です。大祭司は1年に一度そこに入って、犠牲として献げられた動物の血を神の箱に注ぎます。それは神の民たちが犯した罪を神様に赦していただくためです。動物の血に力があるのではありません。神様はいつも無条件で、その深い愛から私たちを赦してくださる神様です。しかし人間たちが自分たちに与えられた神様の赦しを軽く考えてしまわないように、尊い動物たちの命を身代わりに、神様の赦しは確かに私たちに与えられている事を覚えるためです。人間が神様から離れたために命を失っ多状態になったのです。いつも死が人間に付きまとっているのです。人間を死から命へと導くために、尊い命が献げられる必要があったのです。私たち人間が神様に赦され、愛されていることを、誰もが認めることとなるように、誰も否定したりすることのないものであるために、神様は犠牲として献げられる命を求めたのです。しかし如何に尊い動物たちの命でも、期限があるようです。人間の大祭司は1年ごとに動物の命を奉げなければなりませんでした。しかしイエス様が献げられたものは永遠の献げものとなったと教えています。もちろんイエス様がなさった十字架による贖いのことです。神の子イエス様の献げられた犠牲は永遠ですから、もはや動物の命も血も献げる必要はありません。「世の終わりにただ一度、ご自身を生贄として献げ罪を取り去るために現れてくださったのです」。ここには、世の終わり、という言葉があります。イエス様が十字架にかけられた時、その時は終わりの時だったのです。いわゆる終末だったのです。しかし今も人間の時代は続いています。終わってはいません。それまでの時代、一つの時代がイエス様の十字架において終わったのです。そこから新しい時代が始まっているのです。ですから終わりの時と呼ばれています。イエス様のただ一度限りの完全な犠牲が、古い時代を終わらせたのです。新しい命の時代が始まっているのです。神様に愛され、イエス様の命に守られている時代です。そして全ての人が完全なる和解へ至るまで、時が与えられています。イエス様は、再び現れます。「待望している人たちに救いをもたらすために現れます」。人々の神様との完全な和解と一致へと神の国を完成させるためです。「人間にはただ1度死ぬこと、そして裁きを受けることが定められている」、とあります。私達は既に神様に愛されています。私達は既にイエス様の命によって生かされています。何の心配もありません。