2018年9月9日 朝礼拝 『心に決めた通りにしなさい』大賀幸一牧師

申命記15:1‐11、Ⅱコリ9:6‐15

1)惜しまず豊かに蒔く 
 パウロが生み出し育てたコリント教会が抱えていた様々な問題がありました。その一つがエルサレム教会への募金問題があります。人や社会が成長して行くためには、色々な問題が明るみに出て来ざるを得ないのか、としみじみ思わされる今日です。大抵問題は隠されていて、表面化して参ります。それを解決して行く中で人も社会も成長して行くものなのでしょう。エルサレム教会は数年前から災害のためか、大変困窮していました。コリント教会は比較的余裕のある教会でしたから、エルサレム教会への募金を真っ先に提案しました。ところがいろんな問題が噴出して、募金を献げるどころでなくなってしまったのです。しかし、パウロはコリント教会の成長のために、自分たちが自ら言い出したことなのだからやり遂げることを勧めています。そういう時だからこそ、私たちは惜しまずに種を蒔こうではないか、とパウロはアドバイスしています。惜しんで僅かしか蒔かないのなら収穫は当然僅かです。惜しまずに豊かに蒔けば収穫も豊かなのです。神様という方がやはりそういう方です。神様にとっては毎日が悩まされる問題続きです。だからと言って神様は私たちの命を守ることを止めることはありません。私たちの命を神様は惜しみなく愛してくださっています。

2)惜しまず施す 
 10節に、神様は種を蒔く人に蒔くための種と自分たちの生きる糧としてのパンを与えてくださると示されています。蒔くべき種も私たちのパンも、神様は用意してくださる、備えてくださる神様であるのです。もしも私たちが受け取っていないということがあるなら、人間世界で起きているのと同じ様に、神様の与えるものがどこかで奪われ失われている事を覚えるべきでしょう。しかし、先ずは神様は私たちを富む者にしようと与えてくださっているのです。最終的には皆神様への感謝へと辿り着くのです。表面的には人間同士の間のやり取りとして、補ったり補われたりしているのですが、それで終わることなく、やはり最後には神様への感謝があるのです。神様への感謝に行き着くということは、全ては神様から出ている、神様から与えられていることから始まっているからです。実はここに隠されている言葉があります。“純真さ”という言葉が隠れています。どこにもありませんが、惜しまず施すようになる、というのは、純真さ、という言葉なのです。純真さ、というのは汚れがないこと、邪心がなく清いことです。エルサレム教会への募金は、決して何かの打算、取引ではないということです。ただ無心で、真心を込めて献げられた行為なのです。神様は私たちに何か打算があって与え、愛してくださる訳ではありません。無償で愛しています。そして、その神様の愛に教えられてわたしたちも無償で愛するのです。私たちは、神様からただで神様の恵みをいただいたのですから、わたしたちも無償で献げるのです。しかし、人間には、この純真さは、大変難しいことです。私達は献げる時、いろいろ考えてしまいます。それは私自身の命や生活の事を考えざるを得ないからです。それは悪なることではありません。神様に与えられた自分を大切にすることは当然です。神様の様にいつも純真さから与えることは出来ませんが、私たちは神様からそのように与えられていることを感謝して、それぞれが心に決めた通りに自分たちを献げましょう。誰も強制するものではありません。ただ神様への感謝から自分たちを献げます。それが神様を信じる者たちに与えられた、神様の愛と恵みへの応答なのです。