2018年7月15日 朝礼拝 『今や恵みの時、今こそ救いの時』大賀幸一牧師

サム上17:38-50、Ⅰコリ6:1-10

1)神の協力者として勧める 
 パウロはよく誤解されることがありました。使徒でも何でもないのに自分を使徒であると言いふらしている。イエス様と会ったことが無いのに、自分は誰よりもイエス様を愛していると言っている。かつてはイエス様を信じる者たちの迫害者であったのに、イエスを信じる熱心さは本物なのか、などなど。パウロは自己推薦が多いと非難されています。パウロは確かにイエス様を信じる者を片っ端から逮捕しまわっていた迫害者でありました。そしてパウロはイエス様を信じる者となりました。それを無いものとすることは出来ないのです。パウロはイエス様を迫害する者でありました。そしてイエス様を信じる者でもあるのです。パウロは目立つ人でもありました。まるでイエス様を迫害して回ったことを打ち消す為でもあるように熱心にイエス様を信じ、伝道しています。その熱烈さは時に人々に疎ましく思われることもあったようです。パウロのイエス様への信仰は突然始まりました。パウロが求めたものではありません。神様の側がパウロをイエス様を信じる者にしたのです。そしてパウロはイエス様を迫害する者であったことを打ち消す様に、激しく熱心であったのです。パウロにとってイエス様を熱心に求めることが、自分が神様に認められる道、神様に愛されている道であったのではないでしょうか。それでもパウロが迫害者であったことは消えないのです。パウロは熱心にイエス様を求めることで、自分の確かさや正しさを求めようとしました。がむしゃらに走っていないと、自分の弱さに負けてしまいそうになるのです。わたしたちも、今自分たちが信じていること、信じて来たことが間違っていないことをどうやって確かめることができるでしょうか。パウロただ只管に走り続けることでした。今日の御言葉にも、「あらゆる場合に神様に仕える者である」とありますように。私たちの人生は神様と共にあることで祝福を受けます。自分たちの中に正しさを探し求めるのではなく、神様とのつながりの中に、神様との関係の中で私たちは正しさ、真実を発見することが出来るはずです。少なくとも自分たちは間違っていないとすることは、間違いです。私たち神様に対して心を平らにしておくべきです。

2)死にかかっているようでこの様に生きている 
 「死にかかっているようで、生きている」、とあります。これは死にかかっているというのが真実ではなく、本当は生きている、ということを言っているのではなく、私は死んでいるのです。そして同時に私は生きているのです、ということを意味しています。どれもが真実なのです。パウロは迫害者です。そしてパウロはイエス様を信じています。わたしたちは罪の為に神様から離れて死んでいます。そしてわたしたちは神様によって生かされています。そのどちらも真実なのです。私たちにとって大事なのは、片方を消してしまう事ではなく、そのどちらも真実であることを認めることです。パウロはついに自分の弱さを認める者となりました。自分の弱さを認めることは、つらいものです。恥ずかしいものです。自分の弱さを認めることは、強さでもあります。私は死んでいる、そして、私は生きている、このどちらをも私たちが認めることが出来るのは、神様が共にいてくださるからです。私たちに相応しい時を用意してくださるからです。恵みの日とは、神様の都合だけが優先されて、人間はただ忍耐していなさいと言う意味ではありません。私たちそれぞれに神様は相応しい時を用意して、私たちに恵みを与えてくださることを示しています。