2018年7月8日 朝礼拝 『真理の柱であり土台』大賀幸一牧師

列王記上10:1-13、テモテⅠ3:14-16

1)神の家での生活 
 神の家でどのように生活すべきか?これが本日のテーマです。神の家とは、生ける神の教会である、と説明されている通りです。生ける神の教会というぐらいですから、教会は神様によって今も生きている、活動しているのです。生かしているのは神様以外にありません。神の家と言われているのですから、そこに集う者たちは、家族のようなつながりのある者たちです。教会が何故あるのかをも知る必要があります。教会は、真理の柱であり土台、とされています。真理とは神様が与える真理、神様の救いの業、神様の義、私たちのイエス様であり、神様の愛と恵みのことです。しかし私たちは良く知っている教会というのは、問題の多いところです。完全ではありません。そのような教会が本当に真理の柱、土台足り得るのでしょうか。教会が不完全で、問題課題の多いのは、私たちに問題があるからです。神様はわたしたちに、完璧で完全な教会を与えて、そこに入れないものはみんなダメという救いの業をなさったでしょうか。そうではなく、イエス様が来てくださった、私たちを教えて、導いて、一緒に一から作り上げて行くという救いの業をなさっているではありませんか。「キリストは肉において現れ、霊において義とされた。」最初から完成された教会などありません。それは私たち自身がイエス様と共に一から教会を形作って行くからです。問題が多いのは、私たち自身の課題のためです。しかしイエス様は全てを成し遂げて天に昇られたことも知らねばなりません。既にイエス様は御業を成し遂げています。シバの女王がソロモン王を訪問する出来事が旧約聖書にありました。神様のなされることへの驚き、神様への信仰にはこのような驚きがあります。神様が私たちにして下さることへの驚きです。神様がなさったとし思えない驚きが私たちの信仰生活にはあります。この事が私たちを神様へと向かわせます。神様への恐怖ではなく、神様への驚きなのです。驚きは、やがて喜びに変わります。神様の愛の大きさ、恵みの広さを私たちは知るからです。先日京都バプテスト教会の歴史を知る機会を与えられました。最初はテントで礼拝が守られていたのです。しかし教会堂が求められるようになり、祈りの内に今の教会堂が完成したと伺いました。最近は教会堂を持たない教会、信仰の群れが結構あることを知らされます。もちろんどの教会も最初はみんなそうなのですが、ずっと教会堂を持たないのです。それは建物に束縛され、支配されることを嫌ったからでしょう。しかし聖書にはこうも書かれています。モーセの時代に神の民は幕屋と呼ばれるテントを聖所としていましたが、後に神殿となって行った、と。幕屋の方が移動できて、自由で良い利点があるでしょう。しかし神様は神殿を建てることを神の民に命じられました。固定された生ける神の家は必要なのです。信仰生活は、目に見えないことが多いですが、具体的な行動として具体化されて行きます。4章に、信仰者たちを惑わす力として、人々は何かを禁じるという事を信仰者たちに強いることを命じます。たとえば結婚を禁じる、食物を禁じるなどなど。しかし生ける神様を信じる信仰は、神様がお造りなったもの、神様がお与えになったものは何一つ捨てることはない、という信仰に立つ者だと教えています。神様のなされることは、全ての人々に伝えられています。全ての人々に信じられるものとなります。そして、栄光に輝いて、全ての完成の時へと導いています。