2018年4月1日 朝礼拝 『驚くことはない、御覧なさい』大賀幸一牧師

出エ14章15-22節、マルコ16章1-8節

1)受難週 
 イースターを迎えました。受難週の1週間、イエス様と共にイエス様の十字架の道を辿ったからこそ、今日のイースターの喜びは大いなるものです。洗足木曜日、お集まりいただいた兄弟姉妹と共にイエス様がパンを裂いてくださったように、一つのパンを裂きました。一つのカップから葡萄酒をいただきました。いつも聖餐ではなかったので、戸惑った兄弟姉妹もおられたことでしょう。それが良いのです。神様の御業は、私たちの通常の日々との中に突如として出現するからです。もちろん神様への信仰が受け継がれ、大切に守られて行くことは何よりも大事なことです。しかし神様の御業は私たちの日常に突如その現れ、私たちを驚かせるのです。受難週金曜日。祈りの時全ての明かりを消して、真っ暗闇の中で皆さんと祈りました。受難週土曜日。木谷伝道師が、アリマタヤのヨセフが勇気を出して、イエス様が復活する場所を用意してくださったことを証言してくださいました。

2)誰が石を転がしてくれるでしょうか 
 イエス様と共に歩み続けて来た女性たちは出来るだけの用意をしてイエス様の墓に向かいました。それでも全てを準備することは出来ないのです。彼女たちにはどうしても出来ないことがありました。墓石をどうやって動かしたらよいか、ということです。女性3人がかりでも動くことはなく、男性3人ぐらいでなければと言われます。聖書のこういう部分が不可解で、疑わしいという人たちがあります。しかし私たちは何でも合理的に判断し、行動しているだけではありません。どうしても無理かもしれないけれども行かざるを得ない。何かに引き寄せられるようにそこへと向かわせられる気持ちを私たちは否定できません。それこそ神様が導いておられる、と信じるからです。こういうところが不可解で疑わしいと言われるところです。でははっきりしていることを申し上げると、イエス様と共に歩んできた女性たちもまたイエス様の復活を信じていなかったという事です。誰も信じていませんでした。イエス様の復活が信じられないからと言ってだめなことは何もありません。人間の自然な状態が、イエス様の復活を信じる状態ではないのです。そこに神様の御手につかまれて、イエス様の復活へと導かれるから、全てを信じられるようになるのです。墓の中にいた若者から、「イエス様はもうここにはおられない。かねてからあなた方に話されていたように復活されたのです。イエス様はあなた方より先にガリラヤに行かれます」。若者の証言を聞いた女性たちは、恐怖からその場を逃げ出すしかありませんでした。これで終わり、なのです。本来のマルコ福音書はここで終わっています。ここまでがイエス様の弟子ではありますが、人間の一生懸命準備して出来るところです。恐ろしくて逃げ出すしかなかった。それで構わないのです。それほど、イエス様の復活は、死者の復活はあり得ないこと、信じられないことです。でも若者は証言しています。イエス様は復活された。先にガリラヤに行かれると。先にガリラヤに行かれるのは訳があります。イエス様はいつも弟子たちを導いて、その先頭を歩み進まれます。イエス様だけが進むのではありません。私たちの前を進んで、私たちを命へと導くために進んでいるのです。私たちを導きながら、共に進んでいるのです。私たちが越えられない死をも罪をも恐怖をも越えて、私たちを命と光と希望へと導いて行かれるのです。