2018年2月4日 朝礼拝 『子よ、汝の罪許されたり』大賀幸一牧師

列王記下4章18-37節、マルコ2章1-12節

1)欺かないでください 
 列王記下の預言者エリシャの物語を読んでいただいております。イズレエル地方シュネムにある裕福な一家がありました。彼らは預言者エリシャ達を度々家に招き、食事を共にしておりました。裕福な一家は、エリシャのために特別な部屋を設けてそこを自由に使えるように整えたり、大変世話をしてくれました。ある時エリシャは、この裕福な一家に何か報いたいと尋ねるのですが、特に必要なことはないと断られます。従者ゲハジは、彼らにはまだこどもが無いようです。夫も年を取っています。エリシャは裕福な一家の女性に、来年の今頃あなたはこどもを産んでいるでしょう、と伝えたとあります。しかし、裕福な女性は、私を欺かないでください、と預言者に話しています。彼女はこどもが与えられることを求めたのではないのです。しかし翌年預言者の告げた通り、彼女には男の子が授けられていました。こどもは無事に成長して参りますが、ある収穫の時、突然こどもは頭が痛いと騒ぎだし、遂に昼ごろ母の膝の上で死んでしまいまいた。こどもを失った母親は預言者エリシャのいるカルメル山へとやって来て、エリシャの足を掴んで、“だから私を欺かないでくださいとお願いしたではありませんか。私がこどもを与えてくれとあなたに願ったでしょうか”何故このような目に合わせられるのでしょうか・裕福な一家はすでにこどもをあきらめていたのでしょう。ところが預言者は突如こどもが与えられるとしたのです。与えられた喜びが大きいだけ、失った時の哀しみは激しいのです。しかしこどもは預言者エリシャによって再び与えられました。エリシャは、あなたのこどもを受け取りなさい、と言っています。このことは神様が示された大切なことと考えます。裕福な女性は今回の事を通して真に神様が与えてくださった命、我が子を受け取ったのではないでしょうか。失われることが怖いので、傷つきたくないので、命から離れていても、決して与えられた大切な命の恵みには届かないのです。死を恐れていて、生きることができるでしょうか。死を避け、知らないふりをし、見ないようにし、本当に私たちの生命は豊かであるのでしょうか。私たちは神様から、教えられてそのことに導かれて行きます。

2)4人の信仰を見て 
 私たち自身の終末、死について、知らなければならないことが残されています。私たちが望まなくても、そこへと神様が導かれることを信じるべきです。また私たちの終末を迎えるに当たり、大切なことは、神様はわたしたちをすでに天国へ迎えようとしてくださっている、ということです。全てを赦し、全てを愛して、私たちを迎えようとしてくださっているのです。それは、イエス様が今日の出来事の中でおっしゃっておられる御言葉に示されています。「子よ、汝の罪は赦される」。皆さんご承知の通り、イエス様はこの時、中風で身動きが取れない、しゃべりも出来ない人を見ているのではありません。中風の人を運んで来た人たちを見ている。その信仰を見ているのです。4人の人々の信仰を見て、中風の人に、罪の赦し、神様の愛を示しているのです。自分に神様への信仰がなくても、4人の人々の信仰が私たちを導いて、救ってくださるのです。自分の口では神様を信じていると言いにくくても、4人の人々の神様への信仰がわたしたちを導き、救っているのです。そんな4人、私たちにはいるでしょうか。必ずいらっしゃるはずです。