2017年10月15日 朝礼拝 『信仰によって、しました』大賀幸一牧師

ヨシュア6:1-20ヘブライ11:17-22、29-31
1)高槻カトリック教会 
 教会レクレーションが見事な秋晴れの中開催されました。高山右近を顕彰している高槻カトリック教会を皆さんと訪問しました。カトリック教会がミサの時に使用されているパンフットを頂戴しました。カトリック教会では私たち以上にちゃんと聖書を読んでいることが驚きでした。先ず旧約聖書が、詩編、使徒書、最後に福音書が読まれています。いかに礼拝で神様の御言葉を大事に礼拝を守っているかということを覚えさせられました。実はキリスト教会の初期の礼拝では聖書と言えば旧約聖書でした。しかし福音書やパウロの手紙などが書かれることによって、礼拝の中で旧約聖書は読まれなくなりました。福音書、使徒書だけが読まれて来たのです。今日宗教改革500年を覚えて夕礼拝が守られますが、ルターやカルバンの時代の礼拝では、やはり旧約は読まれずに、福音書、使徒書だけが読まれていたようです。しかし第2バチカン公会議以降礼拝改革が進められ今は旧約、詩編、福音書、使徒書が必ず礼拝において読まれるようになっています。そしてカトリック教会ではミサは聖体拝領、聖餐を受けることが礼拝の中心であることに今も変わりはありません。宗教改革の時代、ルターやカルバンは毎週聖餐式を守ることを大切だと考えました。しかしツビングリは聖餐よりも神の御言葉が語られる礼拝が大事として、礼拝説教を最も重要な要素としたのです。それ故に聖餐式は年4回でいいと定めたようです。高槻教会で配られた礼拝パンフレットの一番裏には、毎日の聖書日課が示されていました。神様の御言葉を聞くというのは、日曜日だけに限定ではありません。私たちの日本キリスト教団でも聖書日課が定められています。教団の聖書日課は4年サイクルです。理由は、4つの福音書をその年の中心に据えて聖書を読んで行きましょうというものです。
 
2)信仰によって 
 本日の新約、ヘブライ書、信仰によってアブラハムは試練を受けた時、イサクを献げました、とあります。アブラハムがイサクを神様に捧げたのは、実際にイサクを縛って、捧げようとした時だと通常は考えます。しかしヘブライ書は、アブラハムが最初に神様にイサクを神様への献げものとせよと求められた時にすでにアブラハムはイサクを献げたのだと記しているのです。何故ならアブラハムは、神様の命ずることが全く分からなかったし、納得できなかったけれども、アブラハムはそれでもモリヤの山に出発したからです。確かにそうかもしれませんが、既に神様に捧げたのでしょうが、その信仰は不安と迷いだらけです。モリヤの山への道中アブラハムの心は激しく乱れていました。それでもアブラハムはモリヤの山に行かないという選択をしていないです。アブラハムはいったい何を信じてよいのか分からないながらも、彼の魂に響いて来た神様の御言葉に従い歩き出します。ヘブライ書は、これが信仰なのだと示しています。何も分からない、何も見えない。何も納得できない。しかし神様の御言葉が私たちに示された。迷いながらではあったが、神様を信じようとした。そして、最後まで神様を信じたアブラハムは、今まで見たことのない出来事を見たのです。自分が見たい思ったことではなく、神様が備えてくださったことを見たのです。信仰、神様を信じるという事は、何も迷いも不安もない中でのみあるものではありません。何も見えない、何も確かでない中で、それでも神様がおっしゃることを信じて見よう、として歩み続けるものなのです。神様の御言葉が私たちに与えられた時、耳を傾けた時、一歩歩み出した時、信仰は始まっているのです。