2017年8月13日 朝礼拝 『平和を保ち、主を畏れ』大賀幸一牧師

ヨナ3:1-5、使徒言行録9:26-31
1) 平和を保ち、主を畏れ、
 聖霊の慰めを受け 今日は使徒言行録により初代教会の姿が示されました。そこには「平和を保ち」、という言葉があります。しかし実際にはキリスト教会は、いつも監視され、迫害を受け、命を狙われていたのです。熱心なファリサイ派ユダヤ人であったサウロは後にパウロと呼ばれていますが、パウロはイエス・キリストを信じるようになったためかつての仲間たちから命を狙われています。またパウロはキリスト教会の大迫害者でしたから、エルサレム教会を訪ねても誰も信用してくれません。ただバルナバだけがパウロの事を良く知っていたようです。パウロが本当に回心してイエス様を信じる者なったことを知っていたのです。バルナバの執り成しでパウロとエルサレム教会は信頼できるようになりました。初代教会が保っていた平和とは、迫害を受けていないのでなく、パウロが認められなかったように教会内部に不信感がなかったのでもありません。御言葉には「主を畏れ、聖霊の慰めを受けて基礎が固まり」、とあります。教会の基礎が固められたから、外には監視と迫害があっても、内には不信感があっても、成長していたとあります。その基礎とは、主を畏れるということと、聖霊の慰めを受けていたという事です。主を畏れるとは、神様を恐怖するということではありません。神様だけに私たちは畏敬の思いを持つという事です。神様が恐怖をもたらす存在ではなく、神様だけが全てを知り、全てを見ておられる。私たちには何隠すことが出来ない。そして神様だけが私たちを審判する方です。審判があるからと言って神様が恐ろしい存在ではない。私たちはただ神様を信じて全てを神様に委ねるべきです。単純に言うと、神様を信じることが神様を畏れる、ということです。又神様はわたしたちにも聖霊を与えてくださっています。聖霊はバルナバの様に私たちを仲介して、仲を取り持ってくださるのです。認められないパウロを認められるように働いてくださるのです。そしてこのことが人間の力ではなく、神様から出ていることを、私たちは知らされるのです。それが聖霊の導きです。

2)粗布をまとった 
 旧約聖書ヨナ書の冒頭に、主の言葉が再びヨナに臨んだ、とあります。ヨナは預言者なのですから、神様の言葉が預言者に臨むのは珍しいことではありません。しかし預言者ヨナは神様から逃げ出した預言者です。しかし神様はヨナを連れ戻し、使命を果たすようにと再び神様の御言葉をヨナに与えたのです。逃げ出すような預言者でも神様は再び神様の御言葉を臨ませてくださるのです。又預言者ヨナは大きな町に遣わされて、3日間かけて神様の御言葉を語ります。すると大きな町の人々は、こぞって神様の前に悔い改めて、粗布をまとったとあります。こんなことが起こるのです。人間の言葉ではだめです。ヨナは神様の御言葉を伝えたからです。神様の御言葉は、逃げ出す預言者を再び立てます。何の関心もなかった大勢の人々が神様を知り、神様の元に帰るように招いてくれます。神様の言葉だから可能なのです。私たちも毎週神様の招かれて、神様のところに帰らせていただいています。絶えず神様はわたしたちを御許に帰るように招いています。神様の所に帰って、わたしたちに命を取り戻させてくださいます。必要な御言葉によってわたしたちを糺してくださいます。わたしたちに平和の道を与えてくださいます。何度もわたしたちは神様に立ち帰りましょう。そして遣わされましょう。