2017年4月23日 朝礼拝 『弟子たちが盗んだ、と言え』大賀幸一牧師

イザヤ65:17-25、マタイ28:11-15
1)弟子たちが盗んだ 
 イエス様が復活したのではないということを論証するため、当時から今に至るまで、遺体盗難節は長らく語られて来ました。イエス様がアリマタヤのヨセフの用意した墓に納められたのは、夕闇が迫り、安息日が始まろうとしている時で、大変慌ただしい中、イエス様の遺体処置が不十分な中で安置されました。その場所を間違うという事はあり得ない話ではありません。しかしアリマタヤのヨセフが用意した墓はまだ誰も収めたことのない新しい墓です。当然ヨセフは知っていたし、女性たちも場所をちゃんと覚えていたはずです。お墓から遺体が無くなったという話には諸説あり、イエス様の墓の前のレタス畑の所有者が大勢の人に畑が荒らされるのを怒って、イエス様を別な墓に移してしまったとか、イエス様に対して批判的な人物が勝手にイエス様の遺体を別なところに埋葬してしまったとか、こんな話がいくつもあるそうですが、どれもお粗末な話です。最も信憑性があるものとされたのが弟子たちによる遺体盗難節です。祭司長、律法学者、長老たちは、イエス様の墓に封印をした上に、番兵を置いて見張らせていたのです。そんな状態でどうやってイエス様の遺体を盗み出すことができるのでしょうか。家の扉を閉じてじっと恐怖が過ぎ去るのを待っているような弟子たちの誰がイエス様の遺体を盗んで、イエス様は復活されたと嘘をつくようなものがあるでしょうか。祭司長たちがイエス様が復活されたということを否定したいのなら、イエス様の墓を開き、イエスの遺体はここにあるとすればよいことです。無残なイエス様の遺体を晒して全てを否定出来るのです。それが出来なかったのは、間違いなく遺体がなかったという証拠なのです。イエス様の遺体が盗難されたのでも、墓を間違ったのでもなく、どんなに捜してもイエス様の遺体は発見できなかったのです。イエス様の復活を否定できなかったのです。

2)弟子たちがやって来て 
 ただそれではイエス様の遺体がなかったことと、お墓が空っぽだったという事だけが分かるのみです。しかし、イエス様の弟子達を見てください。イエス様の前から逃げ出し、隠れ続けていた弟子たち。そんな逃げ出した弟子たちが、ある時から全く変わったのです。危険を顧みず、改めてイエス様の福音を語り伝えようとしました。イエス様は復活されたと語り出すものもありました。何が彼らを変えたのでしょうか。弟子たちの中から何かが出て来たのでしょうか。こうした場合彼らの外側から来た何かが弟子たちを変えたのです。もちろん私たちはそれが神様だと信じていているのです。イエス様を復活させ、再び弟子たちの所に遣わし、弟子たちをもう一度神様を信じる者にしたのです。復活の主イエス様が弟子たちのど真ん中に現れて、神様を信じるように教えたのです。もちろん弟子たちはあの弟子達ですから、最初から信じるわけではありません。しかしイエス様何度も何度も弟子たちに現れて、弟子たちを導かれました。そしてついに弟子たちは、イエス様を神様を信じ、愛する者になったのです。これは神様がなさなったことです。

3)復活のイエス様と私たち 
 では私たちと復活されたイエス様との間には何があるのでしょうか。私たちも復活の主イエス様によって呼び集められているということです。そしてイエス様は永遠に変わることなく、わたしたちの神様です。復活されたイエス様を束縛するものは一切ありません。そして死を越えて私たちを愛し続けてくださる方です。ご自分の体を裂き、血を流して私たちを愛し、復活された後も私たちを永遠に愛し続けてくださいます。死さえも破壊するものがあるとするならば、それは愛だけです。神様の愛だけです。死を越えて私たちを愛してくださる復活の主イエス様、この方は永遠に私たちと共にある神様です。ですから私たちもこの方を愛するのです。