2017年4月16日 朝礼拝 『言われていた通り復活した』大賀幸一牧師

エゼキエル36:16-28、マタイ28:1-10
1)十字架につけられたイエスを捜す 
 マタイ福音書はイエス様の復活を私たちにこう伝えています。あなたたちは十字架につけられたイエスを捜している。しかしここにはおられない。何故ならイエス様はかねてから言われていたように復活されたからだ。ここを見て見なさい。ここは、イエス様の遺体が置かれていたところです。何もないでしょう。私たちが捜しているのは、十字架につけられたイエス様です。事実弟子たちの前に現れた復活されたイエス様の体には十字架に打ち付けられた傷跡があったと証言されています。しかし墓には誰もいませんでした。ただ墓にいた天使とされている人物が、イエス様はここにはおられない、復活されたからだと証言しているだけです。目に見えるものは何もなく、只誰もいない空っぽの墓だけがあるのみです。それでも私たちが探し続けるのは十字架につけられたイエス様です。私たちの今は、神の子であるイエス様の命に、犠牲によって支えられているからです。イエス様の十字架があるから私たちは生きられるのです。十字架にかけられたイエス様は復活されてここにはいない。私たちの目から隠されていて、簡単に見ることが出来ないのです。しかしいないということではないのです。人間の手で、目で、復活されたイエス様を示すことも見ることが出来なくても、今もイエス様は私たちのために、私たちを愛し続けるために十字架にかけられたイエス様です。今も見えなくても、イエス様が示してくださった愛の土台に人間世界は立っています。今も神様の愛に私たちの世界は包まれています。しかし人間の目にはそれが見えないのです。私たちはイエス様の復活の証人です。イエス様は私たちのために死なれたけれども、イエス様は生きておられる。イエス様は永遠である、ことを証言して来ました。ところが、人間にはそれが見えないのです。人間には見えないことがいつも問題なのです。しかし、イエス様の墓の石を取り除けてくださったのは神様です。マリアたちが墓に行った時に墓の入り口を覆っていた石は脇に転がされていました。神様が私たちを信じさせてくださるのです。人間が自分たちでイエス様の復活へと至ったのでも信じたのでもないのです。神様があるから、人間の目ではただ空の墓だけですが、イエス様が生きておられること、永遠であり、私たちを愛していることを信じさせてくださるのです。

2)ガリラヤへ行きなさい 
 恐ろしくもありながら喜びに溢れた女性たちは、他の弟子たちに伝えるために走り出しました。そこに復活されたイエス様が現れたと記されています。女性の弟子たちは、イエス様は本当に生きて、私たちと共にあることを実感しました。それだけでなく、弟子たちに伝言します。イエス様は先にガリラヤに行く、と。そこで会おうと約束されたのです。復活の主イエス様に会うために、十字架にかけられたイエス様を捜すのなら、ガリラヤに行くべきです。ガリラヤとは、ただイエス様の出身地ガリラヤ地方だけを指しているのではなく、福音が語られた場所、イエス様と私たちが出合った場所の事です。それは今も全く同じです。福音が語られるところ、イエス様と出会ったところ、ガリラヤに行くならば、私たちは、復活のイエス様に出合います。イエス様は永遠に生きておられ、私たちと共に生きておられることを知るのです。