2017年3月5日 朝礼拝 『ひれ伏して我を拝むなら』大賀牧師

申命記30:15-20、マタイ4:1-11
1)高山右近 
 高山右近がローマカトリック教会から福者に列せられています。高山右近はキリシタン大名でしたが、その信仰の生涯で3度信仰の危機に会っています。一度目は織田信長の時代、当時高槻城主だった右近は直属の上司だった荒木村重に従って信長への反乱に加わっていました。信長は右近を説得するためにバテレンを遣わしました。右近が信長に従わないなら、キリシタンや教会をことごとく殺害、壊滅させるとしました。城では父が中心となって徹底的に戦う、家族は荒木村重の人質、絶対絶命の中、右近は高槻城主を辞任して、只一人信長の前に出頭するという道を選びました。荒木村重は信長に敗れ、高槻城は開城、家族は殺されず、右近は再び高槻城主に戻っています。さて2度目は太閤豊臣秀吉の時代です。秀吉は伴天連追放令を出し、キリスト教指導者たちを一掃しようとしました。この時秀吉は右近に棄教せよと命じたのです。右近だけではなく多くのキリシタン大名たちが棄教を命じられ、従ったのです。しかし右近だけは棄教せず、領地を返上し、一人の信仰者として生きることを選びました。右近は前田利家に守られて金沢に移り、静かに暮らすことになります。さて1614年、時代は徳川家康の時代です。キリシタン国外追放令が出されました。遂にキリシタンは日本に住めなくなってしまったのです。右近たちは家族と共に住み慣れた金沢の地を去り、日本からフィリピン、マニラに移り住むことを選びました。間もなく地上の生涯を閉じて行かれます。

2)誘惑する者 
 悪魔、ディアボロス、サタン、誘惑する者が来てイエス様を試します。悪魔というのは無価値な者、価値あるものを無価値なものとするものであり、私たちに敵対する者のことです。イエス様はサタンを退け、人間が生きて行く価値ある道を教えてくださいます。しかし人間はこれまで石をパンに変えて食べて来たのです。それだけでは人間は生きられないことに気づこうとしませんでした。もちろん人間には食事が大事です。更に必要な霊の糧、命の糧の必要、魂が飢えていることに気づこうとしません。必要なもう一つの糧、霊の糧を何故人間は求めないのでしょう。人間の霊の糧となるのはもちろん神様の口から出る全ての御言葉です。神様の御言葉を聞かせなくするもの、神様の御言葉を無価値なものとする事柄を私たちは見抜かなければなりません。又悪魔はイエス様に高い屋根の上から身を投じてみなさいと命じています。しかしそのようなことをしなくても神様は私たちを愛しています。見えなくても、触れなくても、確かめられなくても、確かに神様は皆さんを愛しています。神様が私たちの事を知らないと思う事があるかもしれないですが、何故知らないのでしょうか?神様は全ての人の命の源、命の親です。ならば心配でないはずがない。どんなに離れていても、必ず心に掛けている。いつも思っている。いつも祈っているのです。神様が皆さんを愛していることは、イエス様が証ししてくださっているではありませんか。又悪魔はイエス様に私を拝め、ならばすべての人間をお前に返してやろうと言っています。人間も世界も悪魔に支配されているのです。イエス様が私たちを自由にするために一時的にせよ悪魔に服従したならもはや価値ある世界は取り戻せません。全ては悪魔のものになってしまうのです。人間も世界もイエス様さえも。そのようなことをすれば全てのものが無価値なものになってしまうのです。無価値な者に従えば、わたしたちも無価値なものになってしまうのです。わたしたちの人生は決して意味のないものではありません。大切な人生、大切な命です。しかし悪魔は私たちの人生が価値のないもののように思わせるのです。悪魔に従い悪魔を拝することは、私たちの人生すべてを無価値にしてしまうことです。神様が私たちに与えてくださった人生、命は決して無駄でも、無価値でもありません。実に大切な価値ある人生です。神様は、あなたたちは命を選びとらなければならないとおっしゃっているのです。