2016年10月16日 朝礼拝 『なすべきことは一つだけ』大賀牧師

フィリピ3:7-21
1)なすべきことはただ一つ 
 私たち信仰者たちがいつも心に抱いていることは、全てを捨てて神様を信じ、神様に全てを委ねることです。これが私たちの信仰の最上級です。又神様によって地上に命を与えられた人間として歩みにとって必要なことは、如何に保つか、積み上げるかではないでしょうか。私たちは自分たちの地上の人生において信仰をもってどこかに重心を置きバランスを取りながら生きているのです。

2)キリストの故に損失と 
 パウロは、キリストの故に損失と見なすようになった、と言っていますように、これまでパウロが積み上げて来た事柄の一切を損失、塵のようなものと見ています。たとえばニヤミン族出身、ファリサイ派、ガマリエルという有名な学者の弟子などです。どれもユダヤ人として自慢してよい事柄です。しかしイエス様を信じることにおいてはこれらは意味のない無用なものです。イエス様を信じることで必要なのは、ただ全てを捨ててイエス様を信じることです。全てを神様に委ねることです。私たちの救い主、ナザレのイエスは、神の民ユダヤの人々に遣わされましたが、ユダヤの人々はイエス様を捨てました。何故ならナザレのイエスは何一つも満足に持っていなかったからです。ユダヤ出身でもなければ、学識も地位も経歴もないのです。そんな何もないナザレのイエスを色々持っている人々が信じることは有りませんでした。逆にイエス様はユダヤの何も持たない人々に認められて行きました。人間たち自身が自分たちで選んだのです。ナザレのイエスを信じ従う道は全てを捨てて信じる道であると。イエス様が人間に与えた道のように見えますが、実は人間自身がイエス様に対してどのように信じて行くのかを自らが選んだとも言えるのです。

3)腹を神とする 
 さてしかし地上における私たちの日常の生活はいかに積み上げるかという道です。経歴、経験、実績、実力、財産、知識などです。これが地上における価値を生み出しています。パウロは注意を促しています。何故なら地上において積み上げて行くことは、時にキリストの十字架に敵対する道を進んでいるからです。自分自身の腹を神としているのです。又人間が多くのものを積み上げて行くことで幸せになれるとするならそれは間違いで、逆に人間自身を縛り、自由を失うことになっています。その姿はいわゆるゴミ屋敷のようなものです。あれもこれもと大事に取って置く間に、自分の周りにはもはや何のために役に立つのか分からないゴミがたまってしまうのです。私たち信仰者たちが目指す道は天国にあります。私たちの本国は天国ですから。天国には地上のものを置いて行かねばならないのです。ゴミとして捨てるのではありません。ゴミではなくリサイクルします。後の時代の人々に用いていただくのです。

4)後ろを忘れ、前に進む 
 イエス様を信じて救われる道は、全てを捨ててイエス様に従う道です。簡単な道ではありません。でもこういうことも出来ます。誰もがイエス様と共にゼロから歩み出すことが出来ます。これまで積み上げて来たことがゼロになってしまうとも言えますが、これまで何も積み上げるものが無くても構わないし、これまで私たちが積み上げてきた過ちも弱さも全てゼロにしてイエス様と共に歩み出すのが私たちの歩む道です。私たち信仰者の道は、この地上では積み上げて行くことを知っていますが、私たちは最終的には神様に全てを委ねなければならないことを知って生きるものです。神様がイエス様を通して私たちを上へ神様の国へと招いてくださるからです。何とかして死者からの復活に達したいのです。何としかして、それは自分が何とかしてではなく、神様がイエス様がおられるから“何とかして”が可能になるということです。