2016年9月25日 朝礼拝 『ひたすら主に喜ばれる』 大賀幸一牧師

コリントの信徒への手紙Ⅱ5:1-11
1) 創立112周年 
 112周年を迎えました。兄弟姉妹に主なる神様の祝福をお祈りいたします。ジョン・エドガー・ニップ宣教師が始められた聖書講義に集う当時同志社神学生だった石黒猛次郎先生たちによって1903年祈りを重ねていよいよ教会を建てるという決心いたしたのです。その時、やがて京都第一の大教会となるとの祈りをもって教会は建てられて行きました。

2) 脱ぎ捨てたいからではなく 
 わたしたちには、神様が備えてくださった永遠の住か、永遠の命があります。ただし4節、この幕屋、私たちの地上の体のことですが、重荷を負ってうめている、とあります。何故呻いているのかというと、地上の体を脱ぎ捨てたいからではなく、死ぬべきものが命に飲み込まれるためなのです。つまり、永遠の命は地上の体を捨て去れば得られるものではないのです。逆に私たちが求めるべきはこの私たちの地上の体の上に神様の用意された永遠の命を着るように歩んで行くべきだということです。この地上の体は私個人のために準備され、与えられたものです。そこには私にしかない個性が備わっています。そこには欲望も備わっています。神様に従うことはこの我欲、自己愛、自己中心的な思いが邪魔になります。それなのに神様はこの地上の体を捨てずに、そのままに神様の用意される永遠の命を受けよと命じられているのです。肉体が永遠の命に飲み込まれることで私という個性、意識、思いは失われないのです。私たちの地上の体を捨てるのではなく、そのままで良いのです。

3) 相応しい者としてくださるのは神様 
 しかし私たちは、このままでというけれども、躊躇があるではありませんか。本当にこのままでいいのか。今日の御言葉の10節にも、キリストの裁きの座の前に立ち、報いを受けねばならない、と書いてあります。その通りです。しかし、5節には、わたしたちをこのようになるのに相応しい者としてくださったのは神様です、と書かれています。神様はその保証として手付金、聖霊を与えてくださっています。わたしたちがこのまま神様に愛され導かれて神様の国に入ることに躊躇があります。故にわたしたちの呻きがあるのです。大いに呻きましょう。6節にこう記されています。体を住処としている限り主から離れていることを知っています、とあります。体を住処としているというのは、私たちの現住所がここ、地上の体にありますと言っているのです。住民票はこの地上にありますが、私たちの本籍は違うところにあるのです。必要なのは神様を信じることです。ひたすら主に喜ばれる者であるということです。私たち自身が神様を、神様の愛を、神様の御業を喜んでいるなら、主なる神様も私たちを喜んでくださいます。

4)人の手で造られたのではない天にある永遠の住か 
 これまでは人間の体、命の事を申し上げて来ましたが、地上の住かである幕屋、という言葉の中には、私たちの地上の教会が象徴されています。地上の教会は、やがて神様が用意された天上の住か天上の教会と一つになるのです。地上の教会が、わたしたちの地上の体と同じくそのままに神様を信じ、神様の恵みを受けるべきなのです。もちろん課題、問題がいっぱいです。しかし神様が私たちに用意されている御業をご覧ください。なすべきことは、死ぬべき私たちの地上の体が神様の用意される命に飲み込まわれてしまうことです。神様を信じて参りましょう。どんな困難があっても、私たちの命をその愛をもって覆ってくださるのが神様。私たちの教会の足らない部分をも導き、私たちを成長させてくださるは神様です。私たちを養い、導いてくださるのは神様です。必要な道を神様は与えてくださいます。