2016年9月4日 朝礼拝 『自由な人として生きる』大賀幸一牧師

1)魂に戦いを挑む肉の欲 
 「わたしたちは地上の旅人、仮住まいの身でありますから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」。“魂に戦いを挑む肉の欲”とは何でしょうか。魂というのは命と言い換えてもよいです。私たちは戦いを挑まれ、巻き込まれているのです。肉の欲とは私たちが生きる上で必要なことです。ストレスと同じです。ところが生きる上で必要でありながら、私たち人間がこの肉の欲に支配されてしまってはいないでしょうか。そんなことになってしまわないように肉の欲に気を付けなさいと教えているのです。何故なら私たちの住かはこの地上だけではなく、私たちは地上の旅人であり。地上にばかり捕らわれていてはならないのです。

2)立派に生活しなさい
 「異教徒の間で立派に生活しなさい。悪人呼ばわりしていてもあなた方の立派さの故に訪れの日に神様を崇めるようになります」と、教えております。悪人呼ばわり、とありますが、ペトロの手紙が書き送られた時代もキリスト教会は悪人とされていました。何が悪人だったのでしょう。当時のローマ帝国社会では、ローマ皇帝を崇めなければ悪、ローマの神々に犠牲を奉げない者は悪でした。ローマの寛容さと言うのは実はそういうところに立つ寛容さだったのです。何の条件もなく自由であるという事はないのです。現代の日本でも、キリスト教会は今でも悪とまではいかなくても奇妙に思われています。毎週日曜日に礼拝と称して集まっている事。いくつかの献金が定められていること。神様に一生懸命捧げ、奉仕していること。説明してもなかなか理解してくれないことも有ります。そのことが信仰者たちにとっていかに大事なことかを知っていただかなければ分からないことがあるのです。私たちが悪人かどうかは、後に分かることです。それでも、訪れの日に人々は神様を崇めるようになります、と預言しています。訪れの日とは、神様の審判の時をさしています。今は理解できなくても、神様の審判の時までにはきっと多くの人々が神様を信じ、崇めるようになるでしょう。そのために何が私たちに求められているでしょうか?「主のために全て人間の立てた制度に従いなさい。皇帝、監督、王に従いなさい。奴隷には無慈悲な主人にも従いなさい」と、教えています。私たちは無条件無批判に人間の業を認めることはすべきではないと考えます。では何故従いなさいと教えているのでしょう。それは私たちがいつも求めているものがこの地上の平和であるからです。不完全であっても地上の秩序と平和のために制度や政治があるからです。私たちはこの地上の平和を祈っています。夏休みで長崎の教会を訪ねた際、コルベ神父が顕彰されていました。日本にもいらしてくださったコルベ神父、第2次大戦下のポーランド、ナチスドイツの手で多くのユダヤ人たちが強制収容所に送られました。コルベ神父はナチスに非協力的とのことで収容所送りとされました。ある時餓死室送りとされた男性の身代わりとなってコルベ神父は自ら餓死室送りを志願しました。数日後まだ生存していたコルベ神父に注射が打たれ、殺されました。

3)善を行って苦しみを受け、耐え忍ぶ 
 わたしたちは皆イエス・キリストが示して下さった愛と忍耐の足跡に続く者たちです。わたしたちはいつもどこかに、誰かのために愛と忍耐を抱いています。それは、訪れの日のためでしょうか。もちろん私たちは地上の旅人です。私たちはまだこの地上から進まなければなりません。神様の待っておられる世界に。その世界は時間などない永遠の世界です。只自分たち自身のためだけではないはずです。私たちがこの地上に生きているのは、私たちが愛と忍耐を抱くためです。私たちを通して、教会を通して、神様の愛の大きさを知っていただくためです。そのための愛と忍耐ですから価値があります。私たちがそれぞれ捧げる愛と忍耐が、これからの時代に徴となり、証しとなり、大切な信仰遺産、残されたものとなって行きます。