2016年7月31日 朝礼拝 『生んでくださったかたを愛する人』 大賀幸一牧師

士師6:36-40、1ヨハネ5:1-5
1)ギデオン  神様の御業のために、
 神様の愛と恵みを受ける器が必ず選ばれ、用いられます。ギデオンの時代もそうでした。当時のイスラエルの人々は、収穫の時になると現れる略奪者たちから食料を守ることで精いっぱいでした。ギデオンは、人が隠れることが出来る酒ぶねの中で小麦を脱穀したりしていたそうです。そんな時に神の使いが酒ぶねに隠れているギデオンを見つけ、神様があなたをイスラエルを救うものとして選ばれたことを伝えるのです。ギデオンは疑り深い人だったようで、自分が神様に選ばれたことを信じられません。それで神様を試すのです。酒ぶねの中に置かれた一匹分の羊の毛が朝には露に濡れているようにしてください。その通りになったようです。ギデオンはそれで満足せず、次の朝この逆、周りの土は濡れて、羊の毛だけ乾いているようにしてください。その通りになりました。それでようやくギデオンは神様が自分を選んでイスラエルを救うために用いられるのだという確信をもったと言われています。皆さんは、ギデオンのように、神様が私たちを選ばれた証拠を求めることはありませんか。わたしは非常に疑り深い人間なので、神様が私を愛しているという証拠が欲しくて、欲しくてたまらず、神様に証拠を求めて祈ったことがあります。夜空を見上げる中で、神様は今私が見ているこの星が少しでも動かしていただけませんか。そうするなら本当神様は私を愛していることが分かりますから、と祈りました。結果は、何にも起こりませんでした。とてもがっかりした覚えがあります。もしも神様の特別の計らいを受けようものなら、まるでそれが自分の力か才能かのように傲慢になって、神様が与えてくださった恵みを忘れてしまう人間になってしまったかもしれません。神様は私たちの事がよくよく見えているのです。

2)神から生まれた人は皆世に打ち勝つ 
 最近は嫌な事件が続きます。日本でも最悪の事件、しょうがい者は生きていても仕方がない、死んだ方がいい、という犯人の主張は、決して犯人だけの言葉ではありません。たぶん世界中に同様の考え、思いがあるのです。私たちは、なぜ人を殺してはならないのか、という当たり前のことに応えて行かねばなりません。しょうがいのある人は生きていても仕方がない、死んだ方がいいなどと言うでたらめな考えが根拠のないものであると証言して行く必要があります。つまりそこには、どこかに欠点があったり、何かが出来なかったりするものは死んだ方がいいということになります。しょうがい者は生きていても仕方がない、死んだ方がいい、という考えは、高齢者にも広がって行くでしょう。あるいはこどもたちにも。基本的に、誰が誰にとって死んだ方がいいのか、その基準を与えてくれるのは、犯人ではなく、神様です。神様が定められた尺度に従わず、自分勝手な尺度で、しょうがいのある人間を傷つけることは決して許されません。神から生まれた人は皆世に打ち勝つのです。イエス様が神の子であると信じ、イエス様によって私たちの命がある、私たちの救いがあると信じる人々は、何時だってイエス様が私たちに与えてくださった価値観、基準を大事にしています。自分たち自身の基準ではありません。そこでイエス様は当時のユダヤ人社会の中で小さくされている人間、罪人とされている人間、失われている人間を探し求められ、出会われ、友となってくださいました。

3)神から生まれた者 
 神を愛するとは神の掟を守ることです。神から生まれた者は神様を愛します。神様は大いなる愛をもって私たちを生んでくださった。私たちに新しい命を与えてくださったからです。愛を持って産んで下った方を私たちは決して否定できない。自分たちが生きているのは、産んでくださった方があるからです。同じ神様が産んでくださった人々の間には切り離せない結びつきが生まれています。イエス様を信じ受け入れる人は、神様から生まれているのです。もうそれで十分ではありませんか。私たちは神様から生まれています。イエス様を通して示されている基準が私たちの生きる道標です。