2016年7月24日 朝礼拝 『相応しくないままで食べる』大賀牧師

1コリ11:23-29
1) 一緒に集まっていても 
 キリスト教会ではその最初から主の晩餐、パン裂きなどと呼ばれる食事をとても大切にしていました。さてパウロさんがこの手紙、コリント教会に宛てた手紙で指摘しているのは、あなた方が一緒に集まって共同の食事をしていることは良いことだが、ただ一緒に集まっているだけでは、イエス様が主催される食卓にはならないのですと注意を促しています。と言うのはあなた方の間に仲間割れがあるからです。各自が自分勝手に食事を始めてしまっていて、もう食事が終わりの頃にようやく駆けつけた人々が食事に参加しても、食べる物は何一つ無いという状態なのです。こちら側ではもう食べられないぐらい満幅の人があり、こちらにはまだ一かけらも食べていないという人がまだまだいたりするのです。

2) 稲盛人気  稲盛和夫さん、
 元京セラ会長の講演が大変評判なのだそうです。特に中国人企業家が稲盛さんの講演に殺到しているそうです。稲盛さんの持論は、他を生かす、他を生かしてこその企業でなければならないと教えています。普通なら競争原理により、他社よりも自社の利益を上げることが第1目的で、そのためにはどんな犠牲も払うというのが企業の本質のようなものです。しかしそれでは会社は必ず立ち行かなくなる。利益追求だけでなく、他を生かすことをいつもどこかに持っていなければだめになってしまうとおっしゃっています。又誰もが会社の方向性を理解し、意思統一がなされているかどうかが、その会社の行く道を左右するとも教えています。教会においても同様の事が言えます。私たちの教会がどちらに進んでいるのか、私たちがこの教会で何を求めているのか、教会の兄弟姉妹たち誰もが明確にそのことを保ち続けていることが大変重要です。私たちの京都丸太町教会どこに進もうとしているのでしょう。それは救いのためです。私たち自身の救いのためです。私たち自身の救い、信仰の確立を求めて教会につながっています。教会で行われる礼拝を通して神様の御言葉を聞き続けるためです。神様の与えてくださる神の御言葉と神様が与えてくださる霊が私たちの救いを作り上げてくれるからです。又私たちはいつも神様の御心を求めて祈りを欠かしません。それは誰もが神様との祈りの輪の中に連なり、神様の愛によって誰もが慰められ、力づけられ、励まされるためです。ところがそれではある程度行くと壁にぶち当たるのです。先ほどの会社企業のお話と共通するように、最初は自分たち自身のためにがむしゃらに走っていても必ず壁に当たります。自分自身の目標、欲望、目的の為だけに走っているだけではだめなのです。自分を喜ばすだけでなく、隣人が共に喜ぶ姿。共に喜んでくれる隣人が必要なのです。そのために自分のために一生懸命蓄えてきたことを隣人の喜びのために献げることが必要なのです。

3)主から受けたこと 
 パウロが主なるイエス様から受けた食事は、次の通りです。教会で行われるこの食事は、神様との新しい契約です。それもイエス様ご自身が私たちの為に血を流して起こしてくださった新しい契約です。又イエス様はこの食事を、私の記念として行いなさいと教えられました。イエス様が私たちの為になさってくださったことを思い出すためです。それはただ思い出すだけではなくて、今も私たちの命がイエス様の血と肉、命とつながっている事を思い出すためです。パウロは誰もふさわしくないままでパンを食べてはいけない、と教えていますが、ふさわしい、相応しくないとは何を指していますか。イエス様が私たちに捧げてくださったパンとぶどう酒、つまりイエス様の流された血と裂かれた体に対して相応しいかどうかということです。ならば相応しいものなど一人もいないのです。それなのに自分は相応しいと勝手に食べてるのか、相応しくないけれどもイエス様が私たちに捧げてくださったこの恵みに感謝して戴くのかの違いです。イエス様の血と肉の前で、相応しい人など誰もいない。しかしそれでもイエス様がわたしたちのために用意してくださる恵みを感謝して戴くのです。それが私たちに与えられたイエス様のパンと葡萄酒のもたらす価値です。