2016年6月19日 朝礼拝 『遠く離れている人、近くの人にも』大賀牧師

ヨナ書4:1-11、エフェソ2:11-22
1)タルシシュに逃げる 
 預言者ヨナはタルシシュに向けて逃げ出しました。ヨナは神様に招きを受けてアッシリア人の都ニネベに行き、神様のメッセージを伝えるように命じられたのです。しかしヨナはこの神様の命令に聞き従わずに逃げ出しました。その理由はニネベに行っても無駄だとヨナは判断したからです。そして預言者ヨナが判断した通りになります。ヨナはニネベの町の人々にこの町は40日後に滅びると、神様のメッセージを伝えたのですが、ニネベの町の人々はヨナの言葉を受け入れ悔い改めたのです。すると神様はニネベの町を滅ぼすとした決定を覆されます。ヨナは怒り、最初から無駄だと思って逃げ出したのだと言っています。ヨナがニネベに行く必要があったのでしょうか?神様はニネベの町を滅ぼしたいのではなく、救いたいのです。ならば40日後滅びるなどと言わせなくても良かったのでは?結局神様は愛と恵みの神、忍耐深く憐れみに富む神、災いを思い直される神様なのだから、とヨナ言ってその後のニネベ町を監視するのです。神様はヨナに呼びかけています「お前の怒りは正しいことか?自分で労し、育てたのでもない一夜に生じ一夜に滅びたトウゴマの木さえ惜しんでいる。12万人以上の人間と無数の家畜を惜しまずにいられるだろうか」と。この物語で面白いのは、神様にとって大事なのはニネベの町なのだろうか、それともヨナなのだろうと思えるところです。もちろん神様は、ニネベの町の人間たち、家畜たちが大事だったのです。しかしそうでありながら一人の人間ヨナのわがままにも付き合ってくださいます。ヨナは最初から神様の求めに背き逃げ出しています。逃げてもいいのです。もちろん神様の御手から逃げきれませんけど。逃げようとすることを神様は許してくださっています。ヨナはニネベに遣わされても意味がない、無駄だと考えました。果たしてそうなのでしょうか。ヨナは自分なんかが一人で行っても何もならないと思ったことでしょう。勿論ヨナ一人では何もできません。神様がヨナを遣わされたのはヨナが何かをすることでしょうか。神様は神様の御業をなさろうとしたのではないでしょうか。それでも一人のヨナがいなければ神様の御業は現れないのです。ヨナは神様の前から逃げ出しましたが、遂には神様から逃げられないことを悟り、神様に遣わされ、用いられました。自分が何かをしようと言うのではなく、ただ神様の言う通り、神様を信じて、神様に従っただけなのです。

2)キリストは私たちの平和 
 エフェソの信徒への手紙、2章14節以下、繰り返しキリスト・イエスによって私たちもたらされた平和、キリストによってなされた神様の御業が紹介されています。二つのものを一つにしイエス様の肉なる命において敵意という隔ての壁を取り壊すこと。15節、双方をイエス・キリストご自身において一人の新しい人に造り上げて平和を実現する。16節、十字架を通して両者を一つの体として神様と和解させた。18節、キリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて御父、神様に近づくことが出来る。22節、キリストにおいてあなた方も共に建てられ、聖霊の働きによって神の住まいとなるのです。その度の御言葉が示しているのも、二つの異なるものが新しい一つのものになるということです。そして新しい一つの者が神様と共にあり続けるのです。それが神様の御業だとしています。異なる二つのものとは、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者であり、異なる文化、人種、民族、性、社会、国が新しい一つの存在になることではありませんか。キリストによって。その時もはや誰もが聖なる民に属し、神の家族であり、使徒と預言者の土台の上に上げられるのです。自分では何も育てず、労苦もせず、先人たちが命を懸けて築いてきた神の民、信仰の恵みを受け取るのです。