2016年5月1日 朝礼拝 『世では苦難がある』 大賀牧師

ヨハネ16:25-33

1)神の幕屋 
 出エジプト記33章を読んでいただきました。7節にモーセは一つの天幕を臨在の幕屋と名付けます。それは神様が隣在される特別なテントでした。この臨在の幕屋は本来エジプトを解放された人々の真ん中にあるべきものだったのですが、解放された人々の天幕、宿営から遠く離れた所に設けられたと記されています。臨在の幕屋建設指示が出エジプト記25章から始まります。その8節、わたしは彼らの中に住むであろう、とあります。ところが32章に金の子牛事件が記されています。もしやモーセはもう戻らないのではないかと言う不安の中、人々はアロンを脅迫して自分たちを導く神として純金で子牛の像を作って崇拝したという事件が起こるのです。この大事件以来神様は人々の真ん中にあることをやめられました。本当は人間たちの日常生活の真ん中にいつも神様がおられることが必要なのです。しかし人間たちは恐れ、耐えられず、神様は人間たちの住む世界から離れた場所に御自分の臨在を示されたのです。

2)はっきりと知らせる時 
 臨在の幕屋の出来事が示しているように、神様が求めているのは人間たちの日常生活の真ん中にいつも神様がおられることです。人間たちが決して怯えることなく、迷うことなく自分たちの真ん中に神様がおられる人生を求めています。イエス様はもはや譬えではなくはっきり父、神様を知らせる時が来る、と教えます。人間は神様を拒否して来たので神様が近づかれることを恐れて来ましたが、何も恐れることはないのです。人間は神様と共に生きて行くものだということに気付かされてい行きます。何も怯える必要はなく、神様が私たちを愛していることを知るのです。

3)散らされて自分の家に帰る時 
 ところがイエス様は、イエス様を信じるようになった人間は皆散らされて自分の家に帰ってしまい、イエス様を一人きりにする時が来る、ともおっしゃっています。モーセの時代、神の民となった人々は、荒野と呼ばれる岩石砂漠を40年も歩み続けたと言います。その毎日神様が食べ物を用意してくださいました。毎日飲み物を用意してくださいました。どちらに行くべきかも神様が教え導いてくださいました。ただ神様に頼って生きて来た毎日です。神様に頼らなければ人々は荒野で生き残ることは出来ません。その彼らも荒野を出て、遂に豊かな土地で生活する時が来ると、いつしか人々の心は神様から離れてしまいます。もう毎日神様に食べる物、飲む物を与えてもらわなくてもいっぱいあるからです。どこにも移動する必要はなく、自分たちの土地、家が与えられたからです。すると人間は神様がいなくたって良くなるのです。神様がいないわけではありません。神様に頼らなくても人間たちは生きて行けるからです。イエス様は必ず人間たちは散らされて自分たちの家に帰ってしまい、イエス様を神様を一人きりにする時がやって来る、既に来ていると教えています。神様に頼らなくても良い世界に生きている人間たちが、神様を信じて行くことには困難があります。神様がいなくてもいいのですから。しかし本当にそうでしょうか。

4)あなた方が私によって平和を得るため 
 神様に頼らなくてもいいようにも見える私たちの世界ですが、しかし今でも私たちの世界を根底から支えているのは神様であり、神様の愛ではないですか。人間の世界の外側には神様がおられるのではないですか。神様から人間は逃げることなどできません。人間は神様に頼ってではなく、神様と共に生きるべきではないでしょうか。イエス様はこれらの事をみんな私たちに示されたのは、私たち人間がイエス様によって平和を得るためだと教えています。イエス様が全てを承知の上で、私たちを愛し、私たちを赦し、私たちの命を保ってくださっているからです。これらの事はもうすでに起こっているのです。イエス様の命によって作り上げられた私たちの命の土台はもう既にあるのです。私は既に世に勝っている、と。神様に頼らなくても良い人間の世界にありながら、わたしたちははっきりと神様と共に生きて行くのです